// // 福沢諭吉『学問のすすめ』の実学の意味

福沢諭吉『学問のすすめ』の実学の意味

この記事は、前に書いた次の記事に関連しています。

近代日本では、福沢諭吉が実学を重視したことがよく知られています。福沢の一般向けの書としてベストセラー・ロングセラーとなった『学問のすすめ』の記述を見てみようと思いました。

長い引用ですが、福沢諭吉は『学問のすすめ』で次のように書いています。

学問とは、ただむずかしき字を知り、し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心をよろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめとうとむべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟ひっきょうその学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言もんごん、帳合いの仕方、算盤そろばんの稽古、天秤てんびんの取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土ふうど道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

福沢諭吉『学問のすすめ』

青空文庫より:http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html


これを現代語訳すると、

学問とは、ただむずかしい字を知って、難しい古文を読んで、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世間での生活の上で役に立たない文芸などの学問を言うのではありません。このような学問も、(確かに)人の心をよろこばせます。その面ではたいへんよいものではありますが、昔から、世間の儒学者・国学者などがとなえたことは、それほどあがめたり尊んだりする必要はありません。昔から、漢学者には、一家を構えて生計を立てることがじょうずな人は少ないものです。和歌をうまく詠むことができて、(同時に)商売がじょうずな町人(商工業者など)も少ないものです。このため、思慮・分別のある町人(商工業者など)や農業者は、自分の子どもが学問に精を出すのの見て、やがて財産や身分を持ち崩すのではないかと、親心から心配します。結局のところ、これは無理のないことであります。このような学問は実際に役に立たないものであり、(私たちの)日々の生活に用が足らない証拠です。

そうすると今、このような実際に役に立たない学問は、ともかくは後回しにして、もっぱらはげむ必要があるのは世間で普通に日々役に立つような実学であります。たとえば、「いろは」(かな文字)の四十七文字を習い、手紙の書き方、帳簿の付け方(簿記)、そろばんの練習(今なら電卓とパソコン)、はかりの取扱い等を身につけることなどがあります。また、さらに進んで学ぶべきことはたくさんあります。地理学は日本国中はもちろん世界各国の土地の気候・水質・地質・地形についての道案内です。物理学や化学などの自然科学は天地万物の性質を見て、その働きを知る学問です。歴史(学)は年代記のくわしいもので、世界の古代から現代までのあり方を詳しく調べあげて記述したものです。経済学は個人や一家の家計をはじめとして社会全体のものやお金の動きを説くものです。修身学(≒倫理学)は個人の行動のあり方を修め、社会のなかでの人々との交際や世間を渡る上で求められる自然の道理を述べたものです。

kumazou 拙訳

※( )内は訳者の判断による補足

ここでの、福沢諭吉の論旨は一貫しています。「日用の間に合わぬ」学問(これが虚学ということになるでしょうか)ではなく、「人間普通日用に近き実学」こそを学ぶべきだということです。

福沢諭吉が生きた幕末から明治時代は、欧米列強から日本の独立を守り、さらには、列強諸国と肩を並べるような実力のある国家建設が求められた時代でした。

その時代にあって彼は、形而上学的な、見方によっては空理・空論といえるような学問よりも、現実的な力となるような学問の必要性を説いたのでしょう。

和歌を味わい、自分も巧みに詠めるような知識を身につけるよりも、その前に学ぶべきことがあるというのは、激動の時代にあっては当然のことであったと思います。

しかし、諭吉が実学としてあげている学問には、現代の一般的な見方からすると、あれっ?といえるものもあります。先ほどの引用に出てきた、地理学と歴史学と修身学です。

現代では、地理学は、少なくとも人文地理学は、和英辞典の虚学の訳語としてあげられていた、soft sciences(ソフトサイエンス)に含まれそうですし、歴史学も修身学も、social science(社会科学)あるいは humanities(人文科学)に含まれそうです。

もちろん、福沢諭吉の生きた時代と今は違いますので、彼が考えた実学の定義をそのまま現代に適用できません。彼が開いた慶應義塾でも、慶應義塾大学へと発展し、文学部もつくられ、たとえば文学や歴史学や哲学の専門学科が設けられたのですから、『学問のすすめ』の記述だけから揚げ足取りのようなことはいえるはずもありません。

ただ、実学の定義は、そう簡単にできないことが予感できました。

実学・虚学については、次もご参照ください

https://ebikuma.com/category/on-learning/jitsugaku-and-kyogaku

new-york-public-state-library

new york public state library  (pixabay.com)

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