学問の中で実学というと、おおざっぱには「役に立つ学問」ということになるでしょう。
役に立つ、有用であるといっても、その役立ち方、有用性というのは、いろいろなあり方があるかと思います。
このことについて、いわゆる理系と文系についての違いを考えてみたいと思います。
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目次
ここでの「理系」とは
ここでは、理系とは自然科学分野と技術分野を指すものとします。
この自然科学分野とは、大学では主に理学部におかれているような諸学科で、基礎科学といわれるような分野です。
技術分野とは、主に工学部、医学部、薬学部、農学部におかれているような、応用科学の分野です。
しかし、医学部の中でも、解剖学、生理学、生化学、公衆衛生学など基礎医学分野は、臨床応用を目的にしているという特徴はあるにせよ、学問のあり方としては基礎科学に近いかと思います。
基礎科学と応用科学を必ずしも明確に分けることはできません。アリストテレス的なテオリア(観想・観照)とプラクティス(実践)や、テオリアとポイエーシス(制作・製作)もそれぞれを完全に線引きできないのと同様です。
また、数学は、厳密には自然科学ではないといえます。コペルニクスやケプラーが天文学で果たした業績や、ニュートンの物理学での偉大な成果は、数学抜きにはあり得ませんでした。ガリレオ・ガリレイは、「自然という書物は数学の言葉で書かれている」といいましたが、自然科学、特に物理学では数学の役割は多大なものでした。逆に、物理学者が数学に与えた影響も大きなものがありました。しかし、数学自体は、自然とは直接の関係はなく、実験・観察とも無縁です。数学は数学の世界の中で完結するものです。
しかし、自然科学や工学は、数学の能力が求められる分野が多くあります。また、数学科は理学部におかれています。大学入試でも、自然科学や工学、医学等の学部では、数学を必須科目にしています。このことから、ここでは、数学は当然ながら理系に含めています。
理系の役立ち方
理系と一口に言っても、いろいろな分野があり、それをひとくくりにして語るというのは無理があるかもしれません。
そこをあえて語るとしたら、この分野は、自然について知り、知ったことをもとにして人間の生活に役立てるという特徴があります。まとめると、次の2点です。
1 自然を知ること
2 そこで知られたことから現実の生活に役立てる
この1と2は、知ること(テオリア)と役立てること(プラクティスとポイエーシス)です。
イギリスの哲学者、フランシス・ベーコン(1561-1626)の格言「知は力なり」はあまりにも有名です。彼の趣旨は、自然を知ることによってはじめて、人間に役立てることができると一般に解されています。
「知は力なり」は、この1と2をひっくるめた考えといえるでしょう。
まさに、理系の分野は、「知は力なり」を全体として体現している分野といえます。
私たち人類は、万物の霊長とか神に似せて作られたものとしても、生物であることは確かです。生物であり動物である以上、物質でできています。質量も体積ももたない霊だけとしては生きられません。
私たちが内臓の病気になったとき、そこには何らかの病変があるはずです。物質としての内臓が、何らかの異変を起こしています。これを解決して病気を治すためには、悪い部分を外科的に切り取るか、内科的に薬で治療するしかありません。
これは、現代の私たちの常識です。しかし、祈祷によって治療するということが常識の時代もありました。
自然科学の発達と科学的知識の普及は、祈祷よりも医学的治療を常識に変えました。これは、問題に対して実際に解決してきたという実績によるものです。
現実をありのままに、そして理論的に認識し、その認識から理論的に解決策を見いだし、実際に行動することによって解決するということを示し続けてきた歴史が、人類に科学はすごいと思わせ、常識を変えさせたといえます。
電気の発見は古代にまでさかのぼることができそうです。しかし、これを利用して文明になくてはならないものにまでになったのは、そう遠い昔ではありません。それにしても、今の私たちが当たり前に使う電灯も電話も、電気の応用なしにあり得なかったわけです。今の時代、研究室で使う実験機器も、病院で使う検査機器も治療機器も、電気なしには動かせません。
現代文明の電気の役割の大きさを考えると、自然科学とその応用の力の大きさが感じられるかと思います。
理系分野は、私たちが暮らす現代文明の中で欠くことのできない、とても大きな位置を占めています。これだけでも、実学中の実学であるといえるのではないかと思います。
ここでの「文系」とは
ここでは文系を、社会科学、人文科学といわれる学問分野とします。これは、研究対象が社会や人間になっているという意味合いです。
この分野の研究では、たとえば歴史学では史料という文献を解読して研究するように、書かれた文章を読み解くことが中心になる分野が多々あります。また、言語学のように、文献だけでなく話し言葉も研究対象になる分野もあります。
法律学のなかの法解釈学も、法律や判例という書かれた文の解釈で、理論を組み立てる分野もあります。文系では、文章の解釈が中心となる分野が多いのが特徴です。
しかし、この分野の中には、研究方法が「理系」といってもよいような分野も含まれています。
たとえば、統計学を用いて研究することは、経済学や心理学・社会学には当たり前のようにあります。統計学による研究の信頼性には、いろいろな意見があるかもしれません。しかし、事実についてのデータを集めて、これによって一定の法則を求めようとする方法は、自然科学の帰納法と類似します。
方法的に自然科学と類似することがあるにせよ、研究対象が人間や社会という点では、理系の分野とは異なります。
個々の分野がいかにも文系的な文章の解釈によるか、その他の方法によるかは、とりあえずおいておくことにします。
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文系の分野の特徴
文系の分野は、前述のように社会と人間を対象とします。古代ギリシア人は、フュシス(自然)とノモス(法、人為的なもの)の違いを意識していました。自然の法則は万人にとって共通ですが、法律などのルールは、国や地域によって変わります。人間の価値観も、個人個人によって異なります。これは、古代も現代も同じです。
相対主義という考え方があります。これを最初に唱えたとされる人がありました。
古代ギリシアのソフィストと呼ばれる、主に政治家となる人に必要な教養や弁論術などを教えた人たちがいました。彼らは、民主制が発達したポリス(都市国家)のアテネで活躍しました。
ソフィストという語は、本来は知恵ある人の意味ですが、今では「詭弁家」の意味で使われることばになってしまいました。マイナスのイメージがつきまとうことが多いですが、ソフィストたちは古代ギリシアで人々の関心を人間やその社会へと向けさせた功績があったと見ることもできます。
ソフィストの中で、プロタゴラス(前490頃‐前420頃)が、述べたと伝えられることば、「人間は万物の尺度である」は有名なことばです。
個々の人間の知覚や判断はそれぞれ異なるのであり、真理の基準は個々人にあるとする考え方を表しているとされます。万人に共通な絶対的真理は存在しないという立場ということになります。
相対主義は、人間の共通の認識、たとえば学問が成立することの可能性を否定してしまう面があり、極端な考え方といえそうです。しかし、彼らはギリシア各地を遍歴し、各ポリスによって法や制度が異なることを見てきました。
彼らにとって、相対主義の考え方にはそれなりの根拠があったとはいえると思います。
文系が対象とする分野はノモスの問題を扱いますので、理系のような確かな知識を得るのが難しいということは否定できません。
文系の役立ち方 その1 社会科学の場合
「経世済民」ということばがあります。
けいせい‐さいみん【経世済民】
世の中を治め、人民の苦しみを救うこと。経国済民。『広辞苑』第五版 岩波書店
この「経世済民」ということばは、縮めると「経済」ですが、そもそもは、今でいう政治と経済を包括する意味が含まれています。
江戸時代の主に儒学者たちの知識人には、この経世済民をテーマとした人々がいました。彼らにとって、世の中を良くするということが自分の学問の役割と自覚していたといえると思います。世の中を良くするための政策を提言することは、まさに役に立つ学問の成果でした。
私たちの生活がより良いものになるためには、物があるだけでは十分ではありません。生活に必要な物が安定して人々のもとに届けられることが必要です。そのためには、物の生産と流通が円滑に行われる状態が必要です。つまり、経済活動が適切に行われる状態が確保されなければなりません。
そのためには、適切な政治が必要です。生産者の生活を安定させ、商品の流通を安定させる政治(政策)をすることが為政者には昔から求められてきました。今でも、選挙の際、自分の生活に直接関わる景気の安定を求めて投票する人が多いようです。
文明社会の人間は、国家の中で生活しており、政治や経済なしには生きることができません。政治や経済は嫌いだという人であっても、完全にそれから逃げることはできないのです。
たとえ山の中で密かに完全に自給自足の生活をしていても、戸籍も住民票もなしでは、この国で生きることは難しいといわねばなりません。社会を無視して100%自然の中だけで生きることは不可能です。
政治と経済なしに生きることができない以上、適切な法や制度を整備し、どのような政策をとるべきか、経済活動はどのように進めていくべきかなどについて明らかにしなければなりません。
そのためには、法や制度について正しく認識し、それを適切につくり、適切に運用する知識と知恵が確立されなければなりません。
実際にこの問題に取り組む分野は、法学・政治学や経済学とその派生分野・近接分野です。
これらは、社会的動物である人間にとってはとても大切な学問分野です。これらは文系の中でも、もっとも役に立つといえる分野です。(世間の一般常識からしても当然の話ですが。)
社会科学に分類される、法学、政治学、経済学、経営学、商学などの分野がこれにあたるといえるでしょう。
しかし、これに対して人文科学はどうかというと、一般的には役に立つ分野=実学には属さない虚学とみなされるのではないでしょうか。
人間が社会的動物であるがゆえに、社会を対象とする学問は、その成果が実学とみなされるのに対して、人間を対象とする学問は、まあ趣味の世界じゃないのといわれる可能性が大きくなるに違いありません。
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文系の役立ち方 その2 人文科学の場合
人文科学というくくり方はもう古いよといわれそうです。人間を対象とする学問でも、研究方法によって、そのあり方は大きく変わるからです。
先に書いたように、人間を対象とする学問でも研究方法が大きく二つに分けられます。
1 文献を読み解く
例:史料を解読する歴史学、文学作品を読み解く文学、聖書や仏典を解読する神学、仏教学、宗教学
2 自然科学のような方法をとる 例:実験や調査によってデータを集める心理学、言語学
2については認知科学という比較的新しい領域としてくくることもできます。また、文学も伝統的な作品論・作家論という研究だけではなく、そもそもテクストとはなんぞやと問うテクスト理論もあります。1と2の区別は必ずしも絶対的なものではありません。
人文科学は、個人的主観や趣味・嗜好・イデオロギーの産物と誤解されやすいですが、少なくとも修士号や博士号をとろうとするなら、そんなことでは絶対に許されません。
しかし、人文科学がどれだけ「科学的」であったとしても、その対象が人間なら、大して役に立たない学問で、とても実学とはいえないといわれそうです。
しかし、だれもが役に立つと考える分野が人文科学に存在することは確かです。
心理学はどうでしょう。その中でも臨床心理学は、精神医学と同様に、精神的な病を薬物ではなく心理学的方法、すなわちカウンセリングによって治療する分野です。また、対人関係や人の消費行動を研究する心理学も役に立つと思う人が多いでしょう。
また、言語学の研究は、機械翻訳に応用されています。まだまだ不完全かもしれませんが、たとえばグーグル翻訳の訳文がけっこう使えるものにはなってきていると思う人は多いのではないでしょうか。(この背景には、言語学よりも人工知能の研究成果の方が大きいとする見方もあるかもしれませんが、機械翻訳の歴史は言語学なしには語れません。)
上記の2にあたる分野は実証的な研究なので、実学的傾向は強いと思います。
しかし、1にあたる、もっとも伝統的な分野は実学ではないという人が多数派でしょう。
1に当たる学問としては歴史学があります。もちろん、100%「1」ではないかもしれません。しかし、歴史学は基本的には史料(多くは文献)を素材にして研究する学問です。(文献が残っていない時代は、掘り出された遺構や遺物を考古学が研究します。)
文献を主に研究する歴史学について、あなたはどう思われますか。歴史学は実学ではない虚学でしょうか。
地震学がなかった時代の地震や津波の記録は、地層や歴史的文献の中にしかありません。地層はすべてを調査できません。調査できない部分があっても、人間が記録した文献を当たれば、地殻の変動は推測可能になります。
また、その時代の人が見た被害状況も、文献には記録されています。実際、歴史学者によって、過去の地震や津波の発生年代や地震・津波の規模や被害状況がが明らかにされている研究報告が、マス・メディアでも取り上げられています。
歴史学といえば、教科書にあるような政治史、社会史、経済史が主流かもしれませんが、災害史は、私たちの身近な問題の研究と感じられるのではないでしょうか。実際、災害は命に関わる問題です。命を守るための重要な情報を与えてくれる学問は、誰もが実学と認めるのではないかと思います。
文献学という分野があります。
「文献」は、辞書では次のように説明されます。
ぶんけん【文献】
〔「文」は書物、「献」は賢人の意。原義は昔の文物・制度を知る拠り所となる記録や、先人の言い伝え〕研究資料としての書物・文書
『新明解国語辞典』三省堂
学問としての文献学は、西洋由来の学問として、ドイツ語のPhilologie、英語のphilologyの訳語です。『広辞苑』では、上田敏(1874~1916)による訳語とされています。
文献学は、文章を勝手に解釈するようなものではなく、書かれた内容を吟味・批判し、それによって真実を明らかにしようとする学問分野です。文献学は、社会科学や人文科学を包摂する学問ともいえます。
日本でも、江戸時代に、儒学の古学派や、また、日本古来の精神を文献から明らかにしようとする国学派の研究がありました。西洋的文献学と同じではないかもしれませんが、日本で発達した実証的文献研究であったといえると思います。
彼らの中には、政治思想にも大きな影響を与える学者もありました。政治思想は、それだけでは空想や観念に過ぎないものかもしれません。しかし、その思想が説得力のある根拠に基づいているとき、多くの人を動かすことにもなり得ます。政治思想は、政治のあり方を変えることもありますし、政治が変わることによって社会のあり方が変わることもあります。人文科学の分野の研究が、世の中を変えるくらいの影響をもつこともあり得ます。
このような場合、このような研究は虚学とはいいにくいと思います。少なくとも、政治思想を唱えた学者にとって、自分の学問は実学だと考えていたことでしょう。
理系と文系の大きな違い
月並み、凡庸な結論ですが、「実学」という観点から見た場合、理系・文系それぞれに実学としての価値は、当然ながら、あるということです。
ただ、両者の間には、決定的な違いがあります。
理系分野は、自然の事実をありのままに知り、応用、利用するものです。価値の問題までは踏み込まないことが原則です。
文系分野は、自然の世界にはない価値の問題、人間や社会にとっての価値や意味を考察するという点です。
たとえば、原子力発電について考えてみるとどうでしょうか。
発電所を設計する技術者は、より安全で効率よく発電できる原子力発電所を作ろうとするはずです。一方で、原子力発電所を誘致しようとする国や地元の政治家と、それに反対する地元住民は、安全性・経済性・地域への影響などの面で真っ向から対立します。
技術者にとって、政治的な問題は自分の仕事の外にある問題であると感じるでしょうし、実際、技術者が関知する問題ではありません。せいぜい、その安全性についての説明に出向くくらいでしょう。技術者の仕事は、同じ会社の営業や法務の部署の仕事も、会社の外側にある政治的な仕事も関係ありません。
しかし、現実には、今では原発をめぐって政治的な問題が発生します。社会全体で見た場合は、技術者が属する会社はその問題から避けて通ることができなくなります。
科学や技術は、自然の認識と利用で完結しますが、このことをめぐって社会的な問題が起こる場合は、科学でも技術でも解決できません。これを解決するためには、ある技術が是か非かを人間が判断することが必要になります。
人間から見て、それが良いか悪いかを評価しなくてはならなくなる問題は、ほかにもあります。
クローン人間を作ることは、研究テーマとしては興味深いでしょう。羊のクローンように、人間にも適用可能な技術はすでにあるといえるかもしれません。
しかし、クローン技術によって作られた人間が、もし、自分であったらと考えたら、とても賛成できないと考える人が多いでしょう。また、クローン人間が社会にあふれたら、その権利はどう考えるべきなのか。人間として扱うのかものとして扱うのか。遺伝子の元となった人とクローンの人では、それは同じとすべきか別のものとすべきか等々。
クローン人間を作ることと、それが作られたときに社会でどう受けいれるかは、まさに理系と文系の領域の違いを表しています。
人間が、価値的な問題を無視して生きられたら気楽なんですが、そうはいかないのが現実です。実学について考えるときも、こうした理系と文系の違いは踏まえておく必要がありそうです。
実学という、価値的な意味合いを含めていることばを問題にすることは、文系的だなと思ってしまいます。
しかし、実学については、考えるほどにまだまだ考えるべきことがあるように思います。また、おつきあい下さい。
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