動物生態学の研究者が、リュックを背負って森の中に分け入りフィールド・ワークをされている姿を、テレビの番組で拝見することがたびたびあります。
たとえば、絶滅危惧種の生態を研究し、残り少ない個体数を増やすように努力されている研究者には、頭の下がる思いがします。
こうした研究は実学なのでしょうか。早い話、お金になるかならないかといえば、お金になりません。役所や大学が、研究費と研究者の生活費を出さない限りできない研究で、この研究がお金を生み出すことはないといえそうです。せいぜい、テレビ番組の制作費と出演料をもらうぐらいではないでしょうか。
お金になるかならないかという基準で実学を定義すると、このような生態学は実学にはなりません。では、すべての学問を実学と虚学のどちらかに分けなければならないとすると、実学でないものは、論理的に虚学に分類されます。生態学は虚学になります。
動物生態学にせよ植物生態学にせよ、こうした研究は意味がないと考える人はほとんどいないように思います。
実際、自然環境を守ることの必要性をだれもが感じている今の時代にあっては、こうした学問はなくてはならないものとされるのではないでしょうか。
大学の理学部で研究されている分野については、基礎研究であって、すぐにでも商品化されてお金を生み出すようなものはほとんどないといえます。(もちろん、理学部出身の人が企業の研究・商品開発部門に入り、新しい商品を生み出すことは多々あることです。)
実際、そういう分野を研究されている人は、私は商品化するための研究をしているのではないと思われているでしょう。基本的には、自然(現象)を認識することが第1の目的です。アリストテレスのいうテオリア(見ること・観想・観照)の学問です。その点で、応用学とは異なるのです。
なお、アリストテレスは、学問を3つに分類しました。テオリア、プラクシス(実践)、ポイエーシス(制作)の3つです。テオリア(theōria)は英語のtheory(理論)やtheatre(劇場)の語源になっている語です。プラクシス(prāxis)は実践・実行を意味します。アリストテレスは実践の学として人間や社会に関わる倫理学や政治学をあげています。ポイエーシス(posis)は制作です。主に芸術的な創作を指します。しかし、プラクシスが人間を対象とし、ポイエーシスは自然を対象とするという分け方をしていますので、物作り、現代では工学もポイエーシスに含まれると考えてもよさそうです。
お金になるかならないかで分類すると、どうもしっくりこないように思います。お金になる学問は、アリストテレスの分類ではポイエーシスの学が主で、プラクシスの学もいくらかは入りそうという感じですが、テオリアの学が含まれないというのでは、学問なんて不要だということにもなりかねません。
商品化できてお金になるとか、研究成果自体がお金になるという基準だけでは、実学の定義としては狭すぎるということはいえそうです。