人文科学は、世間では役に立たない「虚学」という見方が一般的です。そんなものを学ぶ意義などあるのでしょうか。その意義について考えてみます。
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目次
人文科学とは
辞書での説明
そもそも人文科学とは何でしょうか。いずれも最新版の辞書ではありませんが、次の説明があります。
政治・経済・社会・歴史・文芸など、広く文科系の学問の総称。狭義には、自然科学・社会科学に対して、哲学・言語・文芸・歴史などに関する学問の称。後略
『広辞苑』第五版 岩波書店
1「文化科学」の異称。
2 文化科学の中で、特に、哲学・言語学・文芸学・歴史学の称。 後略『新明解国語辞典』第5版 三省堂
「文化科学」は、今ではあまり使われない用語です。上記の『新明解国語辞典』第5版での説明は、次の通りです。
歴史的・精神的な文化現象を研究する科学。←→ 自然科学
『新明解国語辞典』第5版 三省堂
英語では、「the humanities」です。ラテン語のフマニタス humanitas(人文)からきています。より正確には、ラテン語の studia humanitatis(フマニタス研究)という方が適切なのかもしれません。
人文科学は、日本の大学では、主として「文学部」「人文学部」で研究されています。東京大学の学部の後期課程(一般的には専門課程)在籍者数から見ると1割程度の割合の人がここで学んでいます。教養学部の後期課程にも、人文科学に属するような分野もありますので、もう少し多いといえるのかもしれません。
人文科学の「科学」の意味
ところで、人文科学の「科学」とはどういうことでしょうか。
私たちが、「科学」というとき、自然科学のような「科学的」な研究をイメージします。狭義の科学は自然科学を指します。鉄腕アトムが「科学の子」といわれるとき、この科学は自然科学、さらには科学技術も含められています。
もう少し広い意味では、社会科学も含めるような体系的で実証的な学問です。さらにもう少し広げると、「分科学」という意味もあります。それぞれの研究対象や方法をもった個別科学という意味合いです。いずれにせよ、英語のscience、その語源であるラテン語のscientia(スキエンティア)の翻訳語として日本語に定着したことばです。
広義の「科学」は、自然科学的な対象や方法で研究される学問とは限らないということがあります。学問全体を指しているといってもよいでしょうが、人文科学の「科学」は、どちらかというと「分科学」の意味合いです。人文に関する学、人文的な学という意味に解した方がよいでしょう。その意味では、人文学という方が適切かもしれません。
ブリタニカ国際大百科事典によると、「科学」について次のように説明しています。
現在では特に自然科学を,ときには哲学を除いたすべての学問をいう。 (後略)『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版』2012よりCopyright 2001-2011 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
人文科学の中に哲学を含めるのが一般的です。しかし、ここでは、科学と哲学が別物という見方をしています。
たとえば、経済学は、経済活動がどのようになっているかを記述したり、ある経済の現象が起こるのはなぜかという説明をしたりします。このように、科学はそれぞれ研究する対象があります。これは、対象科学といういい方をすることもあります。
それに対して、哲学は、目の前に起こっている現象について、記述したり、説明したりする以前のことを問題にします。
そもそも、経済的な現象とは何かとか、物理現象とは何かとかいうような問題です。
さらに、現象とは何かとか、認識とは何かとか、あるいは、存在するとは何かとかという、より根源的なことを問題にします。その意味では、哲学は存在していることが前提である現象を対象とする対象科学とは性質が異なります。『ブリタニカ国際大百科事典』の解説は、こういう意味で書かれていると推測されます。
しかし、ここでは、一般的な定義に従って、哲学も広義の人文科学に含めておきます。
学問の意味としての哲学
哲学を人文科学に含めるとしても、哲学はより広い意味ももっています。
ニュートンの『プリンキピア』は、正式にはラテン語で書かれた『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的諸原理)』です。高校の「物理」で習う古典力学は、だれもが「物理学」と思うはずです。しかし、古典力学の歴史的著書は「物理学」ではなく「自然哲学」という名前で出版されました。
これは、ニュートンは実は哲学者だったというような話ではなく、哲学の元々の意味である、「知恵を愛すること」、つまり、応用を目的とするのではなく、純粋に認識を目的とするような「純粋科学」については、哲学と呼ばれていたということを表しています。また、自然科学や物理学という独立した分科学が、当時はまだ成立していなかったということもあります。
Ph.D.(Doctor of philosophy、ラテン語では、Philosophiae Doctor)という学位が、今でも欧米の大学では用いられています。これは、直訳すれば「哲学博士」ですが、今でいう「哲学」よりも、もっと広い範囲で用いられます。
神学・法学・医学が西洋の中世の大学では優位に立つ分野として重視されました。同時に、人文科学などの自由七科がその土台となる基礎学として、これもまた重視されました。Ph.D.とは、この神学・法学・医学以外のあらゆる学問についての学位でした。
こうした意味では、哲学(philosophy,英)は、その研究方法や対象分野についてさまざまな意味を含んでいることばであるということができます。ただ、共通点があるとしたら、「知を愛する」という点、つまり純粋に知りたいから知ろうとする純粋科学であることはいえると思います。
「哲学」ということばは、日本語では「philosophy」の翻訳語として使われます。西 周(にし あまね)がはじめに「希哲学」と訳し、その後、「philo-」の意味の「希」が消え、「sophia」の意味の「哲」だけが残り、「哲学」として定着した語です。日本の近代にはじめて登場した語です。したがって、この語の意味は、まずは西洋文化の文脈で理解される必要があります。
西洋文化における哲学は多義的です。時代によってその意味が変化してきました。古代ギリシアだけでも、イオニアの自然哲学者の哲学とプラトンでも違いがありますし、プラトンとアリストテレスでも異なります。ローマ時代と中世でも違いがあります。近代と現代でも同様です。現代でも国や言語圏によっても違いがあります。
今日では、中国哲学やインド哲学などと、非西洋文化にも哲学という語が用いられます。ギリシア人が作ったphilosophia(知恵を愛すること)が含む意味合いとは違いがありますが、「世界観」「人生観」などの「●●観」を示すような「知恵」全般を指す意味としても用いられています。
いろいろな経緯があって、西洋の近世には、哲学に広義の学問としての意味が確立していったと見ることができると思います。
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ルネサンスと人文主義
14世紀から16世紀に西洋でルネサンスが起こり広がりました。
ルネサンス(renaissance)はフランス語で「再生」の意味ですが、歴史的事象としては「文芸復興」と訳されます。この辺のことは、誰もがよくご存じのことと思います。
このルネサンスは、キリスト教が成立する前の時代の古代ギリシア・ローマの学問・芸術の復興・再生という意味が含まれています。
なぜ、そのような復興・再生が進められたのかというと、「人間とは何か」という問いを、古代人の学問・芸術を学ぶことによって、答えのヒントを得ようとするものだったいえるでしょう。
その背景については、いろいろな見方があります。一般的には、商工業の発達で自由都市が発達したことで、キリスト教や教会の世界観に縛られない新しい自由な文化を生み出す機運が熟成されたことによると解されています。
思想的背景には、人文主義(ヒューマニズム)が、ありました。古代ギリシアのギリシア語の原典、ローマ時代のラテン語の原典、さらには、旧約聖書のヘブライ語原典など、古典文献を原語で解読し、その本来の精神を学び取ろうというものでした。人文主義は、ルネサンスだけでなく宗教改革にも影響を与えました。(広義のルネサンスには宗教改革も含まれます)
人文主義とは、歴史的な用語です。中世から近世にかけて登場した古典研究やそれによる人間研究、教育、文学的創作などを行った人文主義者(ヒューマニスト)の考え方を表すものです。その意味では、現代の人文科学とは同じものではありません。
ルネサンスとは何かという問題は、単純な答えができない歴史学上の大問題です。しかし、少なくとも、人間とは何かについて、あらためて考え直そうという人文主義的な考え方が影響したことは否定できないと思います。
世界観や価値観のあり方は、その時代や地域のあり方の影響を受けながら形成され、変化していきます。それは、自然に変わっていくというよりも、その時代や地域に生きる人が考えたり活動した結果と連動するもののよう見えます。
ルネサンス以降の学問の分化
人文科学の主要テーマは、人間に関することがらです。
人間をテーマとして探究する方法として、古人類の骨の化石を調べたり、人体を解剖する解剖学のような、自然科学的アプローチがあります。人文科学は、物質的な存在者としての人間ではなく、その精神をテーマとします。
そのため、人文科学では、もっぱら人間の生み出した言語や、その言語によって書かれた文献を読み解くことを研究方法として採用してきました。これは、先の西洋の中世~近世におけるヒューマニスト(人文主義者)の方法と大差はありません。(もちろん、文献学は中世・近世に比べるとはるかに進歩していますが。)
しかし、近世・近代では、たとえばコペルニクスの地動説やデカルトの解析幾何学、ニュートン力学に見られるような、数学的方法による新しい成果が見られました。
学問は、次第に思弁的な哲学のようなあり方から、より論理的、実証的な方向に進み、かつては哲学の一部門であった分野が、哲学とは一線を画し独立していくようになりました。
この結果、人間や社会を研究する学問として、心理学や社会学、経済学のように実証的で理論的な自然科学的な方法をとる分野が生まれてきました。
人文科学独自の研究対象は次第に減少し、研究方法も新しいものが生まれ、旧来の人文科学とは異なる方法が生まれました。
現代では、人間を実証的に研究しようとする分野が多く生まれました。大学の学部でも人間科学部や人間関係学部など、学際的な研究を目指す学部が作られて久しくなっています。
科学的な人間の研究方法が広がるにつれ、人文科学の存在意義が次第に失われているといえるのかもしれません。人文科学は実学ではない虚学だといわれても仕方がない状況になっています。
人文科学の可能性
古典文献研究の意義
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人文科学は、歴史が古いだけで最先端の学問にはなり得ないと、だれもが思うのかもしれません。人文科学は歴史が古いだけであって、単なる過去の知であるといわれてもどれだけの人が反論できるでしょうか。
人文科学のイメージとしては、現代では日常会話には使われなくなった古代ギリシア語・ラテン語やサンスクリット語や漢文(古代中国語)などの古典語を学んだり、その古典語のテキスト(テクスト)を解読するだけというような分野というイメージがあると思います。悪い意味での訓詁学というイメージもあるでしょう。
また、古いテキストを苦労して読んだところで、今の時代に何の役に立つのかという疑問が、だれでも思い浮かぶと思います。
しかし、「温故知新」ということばがあります。古いものを研究することで、そこから得られた知を今の時代に生かすという意味合いで使われます。
先に見たように、ルネサンスの時代では、ギリシア、ローマの古典古代の文化を学び、キリスト教文化が浸透する以前の文化を積極的に研究し学び取ろうとした「人文主義者」たちがいました。彼らは、古代の文化から学び、それをそのまま彼らの時代に移植しようとしたのではなく、新しい文化を創造したという点で、歴史的意義があるとみなされています。
江戸時代の日本でも、儒教の原典にかえって、古代の儒者(特に孔子)の真意をくみ取ろうとした古学派がありました。また、儒教や仏教が入ってくる以前の、古代日本の精神を学び取ろうとした本居宣長らの国学派がありました。
文献を実証的に解読し学び取ろうとする学問は、このように江戸時代の日本にもありました。古学派や国学派が日本の歴史に与えた影響は、幕府の体制を覆してしまうほどのものがありました。江戸時代のこれらの学問も、単なる古典の注釈だけで終わってしまうものではありませんでした。
古いものを研究するだけでは、必ずしも新しいものは生まれないでしょう。しかし、ルネサンス時代の人文主義者たちは、古いものを研究することから新しい文化を生むような土台を、確かにあの時代に築き上げたといえると思います。
今の時代でも、人文科学はただ古いものを学ぶことでよしとするだけではなく、それによって、今の時代に生きる人間に、新しい何かを提示する可能性を秘めていると思えるのです。
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科学(技術)と人間の問題
科学技術は新しいものを生み出し続けています。それを開発するのも利用するのも人間です。自然から得られたものをどう使うかというのは、どれだけ科学技術が発達しようとも、人間が決めることです。
インターネットが発達して、ネットの弊害がいわれることがあります。しかし、結局のところ、ネット技術が悪いのではなく、それを使う人間に責任があるというのが大方の見方です。
交通事故があるからといって、自動車をなくそうという話になりません。交通ルールを整備して、運転者が安全運転をすれば、交通事故は減らすことができるということが信じられているからです。最近では、事故を減らすような新しい技術が実用化されてきています。
技術が人間に与える問題は、人間が技術をどう使うかということで解決できるということが社会的了解に近いといえるでしょう。
そもそも、科学技術は人間なしにはありえません。科学技術の目的は人間の役に立つものを開発することです。これは広く万民に役に立つ場合もあれば、特定の国家や企業のために役に立つ場合もあるでしょう。科学技術を開発するのもまた人間です。それを使うのも人間です。科学技術に関わるいろいろな問題は、人間の問題も多く含まれています。
また、自然科学は自然を認識しようとしますが、認識するのは人間です。人間が実験や観察をして、データを集め、法則を見いだし、論文を書いて発表するのです。自然が理論を教えてくれるわけではありません。人間が発見するのです。ここでも人間の問題が絡むことになります。たとえば、論文のデータや図表の改ざん問題が生じるのも、人間が研究し論文を書いているからです。
現代は、自然科学や科学技術が社会全体に大きな影響を与える時代です。特に科学技術は、人々を幸せにすることも不幸にすることもあります。これを本当に人々のためになるように生かしていくことは、個人だけではなく、一国家さらに国際社会全体の政治の問題でもあります。
自然界には価値の高低はありません。自然界ではダイヤモンドも川原の石もどちらが高価かということはありません。人間から見て、物質として、より有用性があり希少性があるものに、より高い価値が与えられているだけです。
人間はものごとに価値や意味を与えて生きる生き物です。そのことの善し悪しはおいておきますが、そのような価値や意味は、価値を問わない自然科学的方法では扱うことが困難な領域です。自然は、人間界の価値や意味について教えてくれません。この自然を認識しても、それによって論理的に価値や意味を導くことはできません。
価値は、たとえば多くの人はこれが価値ありとみなしているという心理学的な分析ができます。また、商品の価格については経済学的な分析もあります。しかし、これについても、このようになっているというありのままの現象を教えてくれるだけです。
価値や意味について人々はこう考えているという答えは、参考意見にはなるでしょう。ところが、私はそうは思わないと考える人にとっては、それでは私はどう行動すべきかという答えにはならないのです。
一人一人の人生にとって一般的な価値だけでは答えにならないことがあります。愛する人や自分自身の死に直面したとき、科学的な知では教えてくれない宗教的な問題や哲学的な問題を自分で考えざるを得なくなります。
社会の問題にしても、ある問題について、新しい法律を作ること(立法)によって解決しようとするとき、法律学の知識が必要になることは確かです。場合によっては、医学や薬学、建築学・土木学、情報科学など対象科学や応用科学が必要になるでしょう。
ただ、それだけでなく、こうあるべきである、こうあらなければならない、こうしなければならないという理念が必要になります。この理念は自然科学の方法や法律学の知識では導かれません。
理念を導き出すためには、現在の問題を明らかにし、その問題がどのような目的に向かって解決されなければならないかを考えなければなりません。理念は、実証的なデータを利用するにしても、人間の思考なしには確立できません。
恣意的に理念を設定することは可能です。現実に、イデオロギーによって理念が異なることが起こっています。そのため、政治的な立場によって理想とする政策も異なります。
しかし、理念とされることが、必ず恣意的で、イデオロギー的で、独断的であるとは限りません。
たとえば、“人々の生活が豊かになり、心も豊かになり、平和に繁栄できる社会を作るべきである”、というような理念を想定できます。イデオロギーの違いがあったとしても、この理念に反対する人はほとんどいないものと考えられます。少なくとも、第二次世界大戦が終わった当初には、多くの国がこのような方向をめざしていたはずです。
この理念は、人間の歴史の中で練り上げられた思考の産物と言えると思います。
人間の思考は、独断や偏見に左右されやすいものではあります。しかし、それでも思考によって生み出す必要のあるものは、生み出すしかありません。できるだけ独断を避けるように、もちうる知恵を総動員して思考するよう、最大の努力を重ねるしかありません。
科学的方法では解答できない問題でも、私たちは考えることによって解決しなければならないことが多く存在しています。
人文科学は、自然科学や社会科学と同様に、このような問題に解答するための、参考材料を提供することができます。それは、現実の現象についての科学的・実証的データではないでしょうが、それらのデータとは違う角度からの見方を提供できると思います。
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結び
たとえ虚学といわれても人文科学は必要な分野です
人文科学あるいは人文学は、一般に虚学とみなされる分野ではあります。確かに、大学生が企業に就職する際には、同じ文科系ならば法学部や経済学部などの社会科学系の方が有利でしょう。その点からも、敬遠される傾向はあるに違いありません。社会的要請が強いか低いかという観点からすると、人文科学は高くないのが現実でしょう。
しかし、人文科学が不要かというと、けっしてそうではありません。一つは人文科学を学ぶことで幅広い教養を身につけるために必要ということがあるでしょう。
人間は、ただ、できごとを認識したり、ものを作ったりするだけで生きているわけではありません。働くにしても、ただ収入を得るためだけに働いているわけでもありません。人間は自分が何のためにこの活動をしているのかを考えることなしに生きることができません。さらには、自分が何のためにここに生きているのかということも考えてしまいます。
たとえ、なんらかの気晴らしでもして、気を紛らわして、自分自身と向き合うことから避けていても、それでも全く自分というものを忘れてしまうことはできません。
人間が生きることについて考えようとするとき、昔から多くの人々が考えて来たことを知ることは、いろいろな刺激を与えてくれます。神話でも詩でも劇でも、思想でも哲学でも、歴史(書)でも、そこには人々の知恵がたくさん現れています。
それをそのまま丸暗記するのではなく、それらを読みながら自分自身でじっくりと考え、自分の行動に生かしていくことに、大きな意義があります。
社会に役立つ学問として実学にもなれるはずです
さらに、個人の教養というだけでなく、人文科学を社会に生かすこともできます。これは、学者が大学や学会の中だけで、仲間内にしかわからない特殊な研究だけをしているというのとは全く違うあり方です。
たとえば、倫理学者が臨床医と積極的に関わり、医療倫理やターミナル・ケア(終末医療)のあり方について、共同研究するという道があります。
あるいは、外国文学研究者が、研究者同士の国際交流だけでなく、幅広く民間人の交流の架け橋となるような活動をリードしていく道もあるでしょう。ある国の文学を研究することは、ただ言語だけではなく、政治や経済や社会や生活様式や芸術や宗教や思想など、その国の文化全般を知らなければなりません。外国との良好な関係を築くためには、相手の国を正しく知ることはたいへん有効です。外国に関する知識は、2国間の友好関係だけでなく、それを多くの国に広げていけば国際社会全体の平和に貢献します。
また、ジャーナリストや社会科学者と人文系の研究者が協力して、政治家が発するさまざまなことばの真実性やその論理展開を分析し、中立的な立場から、議会で議論されていることをわかりやすく整理することは、社会にとって有益だと思います。有権者は、選挙の際にだれを選ぶかの判断に役に立つでしょう。
知識人のいわゆる「政治的発言」だけではない、専門性を生かしつつ学際的な共同作業を進めることで政治に貢献するようなこともできうるということです。
人文科学も、社会の役に立つ実学といえる活動をいくらでも担えるはずです。むしろ、人文科学にたずさわる専門家は、教壇での教育活動だけでなく、より積極的に社会に発信し、行動すべきです。もちろん、大学での教育活動も大切な社会的活動ですし、教育の質の向上も重要な仕事であることは否定しません。しかし、大学の外の社会でも人文科学諸分野は必要とされていると私は思っています。
人文科学を学んだ人が、自分の学んだことを土台にして、社会の役に立つ仕事をすることもできます。受けいれてくれる企業がないなら、自分で起業することで社会の役に立つこともできるはずです。人文科学を学んだ人による起業が盛んになれば、人文科学を「実学」として発展させる可能性も広がるでしょう。
開かれた学問として多くの人が研究してほしい分野です
この先、人文科学がこの世からなくなる分野かというと、それは考えにくいでしょう。たとえ、大学からすべての人文系学問が追放されたとしても、大学の外でだれかが学び研究するでしょう。
そもそも、巨大な実験装置を作る必要もないし、研究チームを組織しなくても研究できる分野です。学問の自由さえ保障されていれば研究できます。いえ、学問の自由が保障されていなかった時代においても研究されてきた歴史を考えると、どんな社会であっても研究できます。いかなる制約があっても、研究できる分野です。
別に博士号がなんか必要ありません。だれでも研究してよい学問です。
若いときに志して学び始めるのもよいですし、中年以降に学び始めることもできます。老年期に入ってからでも全く問題ありません。むしろ、年金生活ができる人の方が有利です。
大学で学ぶのもよいですし、独学でも可能です。ちょっと大きな図書館に行けば、そう簡単に読み尽くせないほどの専門書がごろごろあります。
この意味では、広くだれにでも開かれた分野です。多くの人が人文科学の何かの分野を学び、いろいろな人によるさまざまな研究成果が発表されるようになれば、それはおもしろい社会になるだろうなと思います。
技術者の経験から技術と人間を考察する、あるいは自分の専門の技術の歴史を研究する。また、医師の立場から生と死の問題を考究する、あるいは、医師としての経験から医療倫理に関する問題を研究する等等。
すでにこのような実践をされている方々も多数いらっしゃいます。若い人だけでなく、すべての職業の人々や年齢層の人々が、人文科学の研究にたずさわると、単なる「象牙の塔」や「書斎」の学問のイメージは消滅するでしょう。
今はネットを使えばだれでも論文も発表できる時代です。専門家以外の人でもわかるような論文がたくさん発表されて、それをもとに活発な議論が起こることがあれば、幅広い層からの検証を受けることになります。
そうなれば、社会全体の人文科学諸分野全体の知の層が厚くなることも期待できます。それは、多くの人が人間について考え、認識を深めることにつながります。この社会が、より人間にとって生きやすい方向に向かう可能性もあるのではないかと、密かに期待しています。
希望的な意見に過ぎないのは承知しています。しかし、人文科学にはまだまだ可能性があり、これを学ぶ意義は大いにあるというのが、今の時点での私の結論です。
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