素人から見た、プラトンから学べること

Plato

プラトン © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons, via Wikimedia Commons

プラトンといえば、古代ギリシアの哲学者で、ソクラテスの弟子で、アカデメイアという学園を開き、多くの対話篇を書き、イデア論を説き、想起説を説き、魂の不死を説き、4元徳を説き、古代人としてはたいへん長生きした云々、という一般的な説明がされる人です。

そのほかにもいろいろな説明ができる人でしょう。プラトンの著作がいつ頃書かれたか、あるいは真作・贋作はどれか等々。

こうした断片的な知識はそれなりの値打ちがあるかもしれません。しかし、こうした知識だけでは、プラトンから私たちは何を学べるかということは、見えなくなってしまうという問題がありそうです。

プラトンに限らず、古典的な著作を残した人は、自分や自分の著作が研究され、研究成果が知識として後世の人に知られることだけを目指したとは考えにくいと思います。歴史に名を残すだけなら、政治家になって、歴史に残る大きな戦争でも始めれば、良きにつけ悪(あ)しきにつけ名前は残ります。

しかし、プラトンは、政治家のコースからあえて離れて、哲学者の道を歩んだ人です。彼は、単にアカデメイアを開いた人や、イデア論を唱えた人として歴史に名を残したかったわけではなかったでしょう。

プラトンの学説自体は、現代的な意義は乏しく、古典的価値しか持たないという人もあるでしょう。現代の諸々の学問の知見からすると、幼稚なものだという人もいるでしょう。

プラトンの評価は、いろいろな角度から行われてきました。学説それ自体として、教育的な意義について、イデオロギー的な特徴、神秘主義的な傾向、歴史的意義等々です。

私のような全くの素人で、しかも凡庸で愚鈍な人間が、プラトンについて何もえらそうにいう資格はありません。しかし、このような人間だからこそ専門的な問題は無視して好きなことをいえるということもあります。そこで、思うところを少し書いてみたいともいます。

プラトンは、対話篇をたくさん残しました。彼は、一般向けの著作として、読んでもらいたいと考えていたのでしょう。いうまでもなく、対話篇は芝居の台本のような形で、登場人物の対話が記されています。その対話の内容は、恣意的だとか、結論ありきだという批判も成り立つのかもしれません。プラトンの創作であって、実際の対話ではないということもできるでしょう。実際に、プラトンのいいたいことが、ソクラテスの名を借りて一方的に述べられているようなケースもありますので。

しかし、対話篇は講義録や論文と違って、生身の人間が話をしているような臨場感があります。架空の対話であっても、散文的な論文にはない躍動感があります。

ソクラテスが町中で対話を行っていた影響で、彼は対話が重要だと考えていたのでしょう。彼がたくさん書き残した対話篇を読むことで、ソクラテスやプラトンの精神を学び取れます。

人と対話をすることで、自分も相手も考えを深めることができるんだよ。そうして、ものを深く考えていこうとすることが大切なんだよということだったように思います。

理論を組み立てることは意味のあることです。しかし、それよりもまず、話をするということは、哲学とか学問とかいう以前の人間の基本的な精神活動で、対話をすることからものを考えることが始まるのだと、プラトンから教えられているように思うのです。

プラトンの対話篇は、難しい哲学書が苦手だという人でも、すらすらと読めると思います。まずは、『ソクラテスの弁明』から読みはじめてみられたらいかがでしょうか。

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