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秦の始皇帝が求めた永遠の命
古代中国の秦の始皇帝(紀元前259年~同210年)は、国家統一後、神仙思想に傾倒しました。神仙思想とは、不老不死の仙人を信仰し、自分もそのようになろうとする思想です。始皇帝は徐福らに命じて、日本にまで不老不死の薬を探しに来させたという伝説があります。徐福が本当に出航し、日本にまで来たか否かの事実を知ることは今の私たちにはできません。ただ、日本各地に徐福の伝説は残っているようです。
始皇帝が自分が生き続けることで秦王朝による統治を永続させ、国家の安定を図ろうと考えたことは容易に想像できます。ただ、絶大な権力をもった皇帝であっても、不老不死の身になることはできなかったようです。
古来、人には、できることなら死を免れて生き続けたいという思いがあったことは、今の時代の私たちにとっても、理解できることです。死がないなら、愛する人たちとの悲しい別れもなく、永遠にしあわせに暮らせそうな気がします。
現代では、多くの病気が克服されました。特に、結核のような細菌による感染症は、ゼロにはならないまでも、かつて不治の病であった病が、薬によって治るようになりました。その他の病気の治療技術もずいぶんと進歩しました。しかし、死というものが一切なくなったということは、少なくとも今の時点では達成できていません。
永遠の命がほしいと思う人は、それほど多くないかもしれませんが、今の病気を治したいと思う人は多いはずです。
ここでは、もし、不老不死が実現できたらどうなるのだろうということを、想像してみたいと思います。
永遠の命をだれもがもつようになったら
不老不死が実現できるということは、永遠の命をだれもが持てるようになることです。この場合、病気で死ぬことがなくなるとは理解しやすいですが、事故で肉体が破壊されても死なないのかという疑問も起こります。
ここでは、たとえ事故で肉体が破壊されても、再生医療によって元通りの体と意識も取り戻せるようになると仮定します。
さて、このように永遠の命を得る技術が確立したら、どうなるでしょうか。
人は老化しなくなったので、定年はなくなり、永遠に働き続けます。その点では税収不足や社会保障費の支出は抑えられるかもしれません。しかし、高度な医療技術が発達したために、健康保険制度の維持に莫大な費用がかかるでしょう。
また、だれもが思うであろう大きな問題が発生します。人口がどんどん増え続け、食糧やあらゆる生活物資が不足します。土地が不足し、住居も不足します。
食糧不足、水不足、土地不足は深刻になるに違いありません。エネルギーは、再生可能エネルギーで大半がまかなわれたとしても、果たして供給が足りるかどうか。
ものや土地の不足は、国家間での奪い合いをまねくことになる可能性が大です。人々は戦争に明け暮れます。しかし、人は死にません。そこで最後は核兵器で国ごと滅ぼしてしまえば、さすがに再生医療の力は及びません。永遠の命も、核兵器にはかないません。核兵器で滅びた国に自国民を移住させて、自国の拡大を進める国が出てきます。しかし、核戦争がつづけば、最後は人類全体が滅びることになりそうです。せっかく不老不死になったとしても、それでは本末転倒です。
不死の技術は、たぶん特権階級に独占されるでしょう
そのように考えると、不老不死の技術は、全人類に拡大してはならないと、世界の政治家たちは考えるでしょう。その技術は、一部の特権階級にだけ適用されることになります。
政治や財界などの上層にいる人々が、秘密裏に不死の治療を受けます。この場合、世間の一般大衆にばれないように、ある程度老化を進ませてから、死なないようにします。
世襲が当たり前である王家では、王が退位せず、いつまでも王のままであり続けるのは不自然です。そこで、王は80代くらいで退位し、皇太子に王位を譲ります。しかし、王はひっそりと生きているのです。そのうち、世間には先の王はなくなったということにし、王は別人となって生き続けるようなことになるかもしれません。
有名人であればあるほど、死んだことにしないと、不死であることがばれてしまいます。
140歳くらいなら、あの人は奇跡的に長生きしているなと皆が思うものの、永遠の命を手に入れた人とはしばらくは気づかないでしょう。
しかし、さすがに200年も生きていれば、おかしいなとだれもが思い始めるに違いありません。いずれ、その秘密を暴くジャーナリストが出てくるでしょう。そうなると、民衆は怒り、情報公開を約束する政党が政権を取ることになります。
新政権は、不老不死医療を一般に開放することを約束するかもしれません。しかし、それは核戦争へ向かう破滅の始まりかもしれません。
「0.1人子」あるいは「0.01人子」政策
不老不死医療が大衆化すると、高齢化社会、高齢社会、超高齢社会以上の高齢化率が進みます。未来のある時点で、不老不死医療が一斉に始まったとしたら、若年層も高齢者層もそれぞれその時点で老化が止まり、若い人は若いまま、高齢の人は高齢のままで永遠の命を得ることになります。すでに高齢の人が若返る医療が実現すればいいのですがそうでない場合は、働けない一定の層が社会に残ることになります。しかし、老化しない新しい世代が増えていくので、高齢化率は徐々に下がっていきます。
しかし、人口は増え続けます。そこで、中国でとられていた一人っ子政策のように、産児制限をする必要が生じます。一人っ子政策では夫婦二人に対して子どもが一人ですから、不死社会では、まだ制限が足りません。
そこで、政府は夫婦10組に対して1人、さらに100組に対して1人というくらいに制限することになります。問題は、どの夫婦に出産を認めるかということになります。所得の高い人に認めるというのはそれなりの合理性はあるでしょうが、それには反発が出ることは必至です。より民主的にということであれば、くじ引きか投票、面接や実技を含む試験によることになるでしょうか。
いずれにせよ、子どもをもてる夫婦は数の限られた特別な権利を与えられた人たちということなのですから、何らかの選抜方法をとるしかなくなります。
しかし、いくら産児制限をしても、それでも人口は増え続けます。やはり核戦争の道しかないのでしょうか。
他の惑星に植民市が作れたら
破滅を回避する道として、決定的な解決策としては、地上から出て行くことです。
古代から、生産力の高まりによって人口が増えたときは、本土から出て植民市へ移住することがありました。同じように、人口が増えすぎれば、地上ではなく、地下か空中に都市を造ればよいのです。
しかし、これでも地球の資源を消費することには変わりありませんので、ものの取り合いは防げないかもしれません。
そうすると、人類の大半は宇宙のどこかの惑星に移住するしかありません。
他の惑星にまで飛行できる宇宙船が作れるかどうか、果たして人類が住める惑星があるかどうか、それが存在するとしても見つけることができるかどうか。ここに鍵があります。
不老不死の技術と宇宙飛行の技術とどちらが実現しやすいかは未知の領域です。いえることは、もし実現されるのなら、この二つはセットで実現されるべきだということです。
死と生
永遠の命を得ることが良いことかどうか疑問が残ります。むしろ人類の文化は、死があることを前提に成り立ってきたともいえます。
古代以来のインドの宗教では、生まれ変わりを永遠に繰り返す輪廻から抜け出すことをめざして、修行者たちは修行に励んできました。
また、キリスト教では、世界の終わりに際して、神を信じたものは最後の審判によって永遠の命を与えられるとされています。
こうした宗教の教えは、死がなくなれば意味が薄まるでしょう。インドの宗教の見方からすると、死がなくなっても、この世に生まれた苦しみからは永遠に抜け出せなくなってしまいます。永遠の命などそもそも必要ないという人も出てくるかもしれません。
また、宗教とは別の視点で、死があるからこそ生が輝くという見方もできるでしょう。多くの芸術家が、人間の生の輝きを作品を通じて表現してきたこともあります。死がなくなると生きていることの意味を考えたり感じ取る意欲は下がる可能性は大きいと思います。
芸術も命をかけた表現活動としてよりも、人々の退屈しのぎの娯楽を提供することに主眼が置かれるようになるかもしれません。なにせ、永遠の命があるのですから。何百年か生きている中で、過去のすべての映画を見尽くした人も現れるでしょう。すべての小説を読み尽くした人も現れるでしょう。もう、過去の作品は飽きてしまったという人が出てくるのではないでしょうか。もちろん、今のエンターテインメントの価値が低いなどというつもりはありません。娯楽と芸術が対立する概念とも考えていませんので念のため。ただ、芸術は今とは違う方向に進んでいくことになるのではないかと思います。
こんな空想をしていてもたいした意味はないかもしれません。ただ、自分なりに生と死についてあれこれ考えていたらこんな脇道に逸れてしまったというわけです。
古代ギリシアのプラトンは、魂の不死について語りました。肉体が滅んでも魂は永遠で、死によってむしろ魂が自由になれると、対話篇『パイドン』の中でソクラテスに語らせています。
魂の不死については、今もなお検証できないことで、科学的観点からは単なる神秘思想に過ぎないということができます。しかし、死の問題を考えることは少なくとも古代人以来の人類のテーマでした。(死者を埋葬した原始人も、死について何かを考えていたこともいえるでしょうが)。
今の時点で不老不死ではない私たちにとっては、いかに生きいかに死ぬかは、今なお避けて通れないテーマです。年齢に関係なく、自分の人生をより豊かにするために、このテーマについて考えていただければと思います。