柳父 章『翻訳語成立事情』(岩波新書)を再読しました

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柳父 章氏の『翻訳語成立事情』(岩波新書)という本を久々に読み直しました。

今年(2018年)の初めに、柳父氏の訃報が新聞に載っていて、この本のことを思い出したからです。黄ばんでしまったこの本を、あらためてむさぼるように読みました。

この本が出版されたのが1982年でした。新刊書として書店に平積みされていたのを買い、それを読んだときは、私はまだ若かったと思います。若いころに読んだこともあってか、私にとっては忘れられない一冊です。

この本を再読して考えたことを書いてみます。

社会、個人、近代、美、恋愛、存在、自然、権利、自由、彼(彼女)

これらの語は日常会話では、何となく使いにくいことばです。

例外として、交際中の男性や女性を指して、彼や彼女といういい方は日常会話でも使いますが。

それら以外のことばは(ジャンルによりますが)、新聞や本にはよく登場します。国語の教科書の論説文にもよく出てきます。

どちらかというと、口語的ではなく文語的と言えそうな単語です。

そこで、問題です。

《問題》 これらの語の共通点は何でしょうか?

この記事の表題からも明らかですね。

《答え》 これらの語は、日本の近世・近代以降に欧米のことばの翻訳語として定着したことばです。

これらの翻訳語は、欧米のことばを日本語に翻訳するために、西周(にし あまね)や福沢諭吉や中村正直などの先人がいろいろと工夫して作り上げてきたことばであるともいえます。

古くから漢籍(漢文の書籍)に存在したことばも含まれていますが、日本には存在しなかった西洋の概念を、漢字を用いて何とか表現しようとしたものです。

こんなことは周知のことだといわれるでしょう。しかし、このことが私たちの文化のあり方にどのような影響があったのかという問題は、少なくとも10代のころの私自身はあまり考えたことがありませんでした。

たとえば、「社会」という語は、まず「しゃかい」として、小学校の教科の名前として与えられました。「しゃかい」では、身近な地域のことを学んだように思います。学年が進むにつれて、その範囲が広がっていきました。中学生になると、「社会(科)」として、地理・歴史・公民という分野を学びました。時間と空間の両面で小学校よりもさらに範囲が広がり、また、日本の政治や経済のしくみも大まかに知ることになりました。

学校の「社会(科)」を通じて、「社会」という語の概念を理解してきたように思います。私にとって、「社会」ということばは、自分の生活を取り囲む人々の場、見知らぬ他人も含めた人間と人間との関係によって成り立っている人的な空間として理解しました。

「society」という英単語が「社会」の意味であると習ったとき、私の頭の中では、すでに形成された「社会」の概念が英語の「society」に当てはめられたに過ぎませんでした。

これは、「個人」も「近代」も上記のほかの語も皆同じです。まず、日本語の単語として学んで、その概念を形成しました。そして、英語を習うようになってから、それらの日本語の単語を英単語に対応させて覚えていきました。

冒頭に挙げた日本語の単語の英単語を念のため挙げておきますと、次の通りです。

社会 society

個人 individual

近代 modern

美 beauty

恋愛 love

存在 being

自然 nature

権利 right

自由 freedom,liberty

彼(彼女) he(she)

いずれも、「この語は英語ではこう言うんだ」という感じで覚えました。私の頭の中では、上のような単語も、「boy」や「girl」も「student」も同じ扱いで、英単語に日本語の単語を機械的に対応させているだけでした。

中学生や高校生のころ、平凡な生徒だった私は、たいして深く考えることもなく、単語帳や単語カードなどを作って、ただただ定期テストに必要な英単語を覚えているだけでした。

小学生のころは、世間で「明治100年」といわれていましたが、明治の初めに翻訳語として確立していったことばは、100年間という歴史を経て日本語にそれなりに定着していたのでしょう。(それから50年が過ぎ、今年(2018年)は明治維新から150年といわれています。翻訳語も、あの頃よりいっそう日本語に定着しているといえそうです。)

それだからか、社会や個人などの上記の翻訳語が、翻訳語であるという意識がほとんどなく、日本語としてそれらの語の意味を受けいれていました。

翻訳語にはどこか堅苦しさがあるとは感じながらも、それが翻訳語であるということをあまり考えないまま、せっせと学校の勉強をしていたわけです。だいたい、西洋語の翻訳語も、漢文由来の漢字や熟語も、平凡な子どもであった私には区別できませんでしたから。

「社会」や「個人」などの西洋語からの翻訳語は、「flower」の「花」のようには具体的なイメージをいだきにくい語ではありました。子どもにとって、直接に五感で感じることができる具体的な対象をもたない単語は、その由来が何であれ、わかりにくいのは当たり前です。

日本語の文章の中に出てきたとしても、手に取るようにわかりやすいとは言えないような、どちらかといえば難しい語でした。

それらが抽象的な概念を表していて、しかも外来の概念であったからでしょう。

近代における翻訳語の創造と定着

この本『翻訳語成立事情』では、「社会、個人、近代、美、恋愛、存在、自然、権利、自由、彼(彼女)」という翻訳語がどういう経緯で日本語の中で定着してきたか、いろいろと考察されています。

「society」→「社会」という翻訳語が定着するまでは、いろいろな語が当てられてきました。福沢諭吉は「交際」や「人間交際」という語を用いたこともありました。「individual」→「個人」も今では当たり前ですが、諭吉はあえて当時の人にとってはわかりやすい「人」や「人各〃(ひとおのおの)」「一人の民」等と訳すこともありました。

もともと日本になかった西洋の概念を翻訳するとき、当時の知識人たちは悪戦苦闘していたわけです。もともと日常的に使われていたことばを用いて訳すことも、新しい意味をもった新しい語を作ることもありました。

前者の場合は、それまで日本になかった概念として理解してもらうことが難しくなります。反対に新造語で表すと意味のわかりにくさが残ります。

今の私たちは、先人の苦労によって生み出された翻訳語を、国語の語彙(ごい)の一部として、子どもの頃から教科としての「国語」の中で学びます。教科書にも、翻訳語が普通に含まれています。

これらの翻訳語は、多くは漢字2文字の熟語として造語されています。それぞれの漢字の意味を漢和辞典で引いても、必ずしも意味がわかるわけではありません。「社会」の「社」と「会」の漢字の意味を理解しても、「society」の意味がわかるわけではありません。「熟語」なのだから当然だということもあります。だからこそ、新しい意味をもつ「熟語」として造語したのでしょう。

『翻訳語成立事情』を読むと、今まで深く考えてこなかった翻訳されたことばについて、あらためて考えさせられました。

「自然」も「nature」の訳語だけではなく、老子の「無為自然」の「自然」も古くから使われてきたことばですし、親鸞の「自然法爾(じねんほうに)」という仏教用語もあります。これらの「自然」は同じなのでしょうか。

「権利」は、「基本的人権」とか「自然権」、「自由権」や「社会権」などと「○○権」として使われます。一方で、「行政権」「立法権」「司法権」「国家主権」「国民主権」という「●●権」もあります。「権」という漢字は同じでも、前者と後者では同じ「権」とは言い難いところがあります。

こうしたことは、高校生のころに何となく感じていた疑問だったのですが、この本を読むと、そうした疑問の根源がどこにあったのかということがよくわかりました。

本書は、個々の翻訳語について実証的に厳密に分析された研究書という性質の本ではありません。もちろん、著者の長年の研究の成果に基づいて書かれています。

私たちが当然のように使っている日本語の中での翻訳語が、どのような経緯でどのような問題点をはらみながら生み出され、定着してきたか。そして、その影響がどのようなものであったかを知る入門書としては、たいへんおもしろく読める本です。

明治時代の文語文の引用もありますが、わかりにくいところは飛ばしながら読んでも、本書を味わうことは十分可能です。

現在も絶版になっていないのは、私としてもたいへん嬉しい限りです。まだ、読まれたことのない方には、ぜひ読んでいただきたい本です。

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