人文学がなくなった世の中はどうなるのでしょう

世間では、就職に役に立つような「実学」こそ学ぶべき学問だと考える人が多いようです。

受験生が大学の学部・学科を選ぶときに、そのような認識が影響するのは、昔から変わらないように思います。

本当は文学部や人文学部に進みたかったけれど、親から「そんな学部に進むと就職できないぞ。それだけはやめろ」と言われて、法学部や経済学部を受験したという人は昔も今も多いでしょう。

人文学(人文科学)は、理系分野における基礎研究(たとえば理学部・理学研究科で多く行われているような研究)以上に、「役に立たない学問」として嫌われています。

そんな学問は、税金が多く投入されている国公立大学から追放しろというような人もいます。

もし、人文学を日本社会から排除するとしたら、どんな仕方でそれは行われるのでしょうか。ちょっと想像してみます。

始皇帝 via Wikimedia Commons

秦の始皇帝は儒家を嫌い、儒家思想と思想家を弾圧する「焚書坑儒」を行ったといわれます。

それと同じように、歴史学、文学、哲学のような人文系の学問が禁止され、その研究者を穴にでも埋めて、書物も燃やしてしまう方針を政府が打ち出したとします。

当然ながら、大学の人文系の学部・大学院・研究所は廃止されます。

図書館から人文系の書物はなくなります。大学の図書館からも国立国会図書館からも、過去にさかのぼってすべて消え失せます。

司書や学芸員の方々は、産業廃棄物として人文系の書物を業者さんに引き取ってもらうという作業に追われます。中には、貴重な古文書を廃棄するのが忍びなくて、こっそり鞄にしまい込んで家に持ち帰る人が出てきます。しかし、それは防犯カメラがしっかりととらえていて、後でそのような司書や学芸員は逮捕されます。

出版社も、自然科学系か社会科学系の本しか出版できなくなります。今以上に、ハウツーものやビジネス書ばかりを出版することになるでしょう。

テレビ局は歴史関係の番組は放送できなくなります。NHK総合テレビや教育テレビ(Eテレ)のいくつかの番組は打ち切りです。大河ドラマは、歴史ものではなく娯楽性の高いフィクションとしてなら認められます。そもそも、時代考証や方言指導のスタッフは、存在そのものが否定されていますので、歴史ドラマの製作自体が不可能になるでしょう。

詩や小説は、役に立たないものなので、基本的には禁止です。ただし、コミックや映画やテレビドラマの原作や脚本は、庶民の娯楽として商品価値があるので認められます。しかし、これを研究して論文を書こうなどということは絶対に認められません。

また、広告のコピーは経済活動に必要なものなので、絶対に禁止されることはありません。

音楽や美術も、娯楽性の高いものや広告に使うものに関してのみ認められます。ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの歌のような、文学性の高い歌詞の音楽は認められません。バンクシーの「落書き」も認められません。その他の批判的・風刺的な美術作品や抽象的で難解な美術作品も排除されます。音楽や美術の批評家は追放されますし、音楽史・美術史や美学・芸術学の研究も禁止です。

心理学は、ビジネスや精神医学において利用価値があるので、OKです。

言語学は、外国語習得のための理論や、認知科学としてコンピューターサイエンスにも資するので認められます。

社会学や文化人類学も、科学的理論として構築されたものは、ビジネス現場で役に立つこともあるのでOKです。ただし、社会批評は人文的な臭いがするので、これを公にすることは許されません。

教育学は、科学的な教育方法の研究ならば認められますが、教育思想や教育思想史は人文学的なので禁止です。・・・等々。

まあこんな具合で、「役に立つか」とか「科学的・実証的か」という視点で、人文学やその近接分野で禁止されるものもあれば、一部の例外もあるでしょう。

レヴィ=ストロースの文化人類学の著作は、ぎりぎり出版を許可されるかもしれません。しかし、ポスト構造主義はアウトになるかもしれません。

チョムスキーの『文法理論の諸相』のような言語学の著作は問題なくOKですが、彼の政治批評の著作は発禁です。

岩波文庫の大部分は禁書になります。いろいろな大学の出版会とか出版局が出している書物も同様です。青土社の『現代思想』『ユリイカ』のような雑誌も発行禁止です。

何ともつまらない光景です。

そもそも、人文学と社会科学を区別する境界もはっきりしているわけではありません。

「資本主義」や「民主主義」や「市民社会」について問うことは、社会科学だけの領域とはかぎりません。そうなると、区別が難しいので社会科学も丸ごと排除してしまったほうが話が早いということにもなります。

そんなことをすると、経済学や経営学のような「役に立つ」「科学的・実証的」学問も排除することになります。

しかし、会計学は人文的要素は低い上、公認会計士は社会で必要な「役に立つ」分野なので、排除できません。

また、法曹がいないと裁判もできなくなって社会が成り立たないので、法律学は必要だということになります。

そうすると、社会科学でも少なくとも会計学と法律学だけは生き残るでしょう。しかし、憲法学や法哲学は人文的傾向があるから排除すべきだという意見が出てきたり、金融工学は役に立つから残せという人も出てくるでしょう。

人間とその社会に関わる「人文・社会科学」は、役に立たないので排除しようということになると、役に立つか立たないかの線引きで争いが起きそうです。

以上は、もし人文学が社会的に排除されたらという、私の個人的な想像でした。この想像から考えたことは以下の通りです。

人間は生きているかぎり、人間の問題、社会の問題、人生の問題を全く考えないでいることは難しいと思われます。人文学的領域は、それで就職できたり、すぐにお金が儲かるような形で役に立たないかもしれません。しかし、生きている生身の人間はその領域への関心を完全に捨て去ることができません。

少なくとも人文学関連の書物は出版されて、街の本屋さんで販売してほしいと思います。私はそのような本が読みたいのです。私と同じように思う人は他にもいるはずです。

私は、文学や宗教学や歴史や哲学の本が読みたいと思うのです。ただ、日々仕事に追われているだけで、そういう分野の視点を忘れると体の調子も心の調子もおかしくなります。体を鍛えたり健康のために運動するのと同じように、人文書を読みたいと思っています。

また、さらにいえば、人文学だけではなく社会科学も自然科学についても知りたいことは山ほどあります。

「人間は生まれながらに知ることを欲する」(『形而上学』)というアリストテレスのことばが、あらためて心に響きます。

アリストテレス

Bust of Aristotle. Marble, Roman copy after a Greek bronze original by Lysippos from 330 BC; the alabaster mantle is a modern addition.  After Lysippos [Public domain]

アリストテレスは、人間や社会に関する領域であろうが、自然に関する領域であろうが、論理学であろうが、あらゆる分野に関心をいだきそれを探究しました。その彼のことばは、人がものごとを知ろうとすることの意義を明らかにしてくれています。

知ることや知ろうとすることには大きな意義があります。この知の意義に関する問題は、あらためて考え直したいと思っています。

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