特効薬ではないが、万能薬としてじんわり効くのが哲学かもしれません(『哲学しててもいいですか?』を読んで)

アテネの学堂

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先日、『哲学しててもいいですか?』について書きました。

この本を読んで、私自身が哲学についていろいろと考えるところがありました。
そんな私が考えたことについて、書いておきたいと思います。

(以下の内容は、この本の内容と直接の関係はありません。私が考えたことであって、この本の著者の主張とは直接の関係はありません。以下の内容の責任はkumazouにあります。この点はご了承ください。)

「箱の中」の思考と「箱の外」の思考

哲学的にものを考えることは、自分の目の前にあることがらすべてを自明のものとしないところから始まります。

たとえば、親がこう言っていたとか、学校の先生が「これが正解です」と言っていたことや、新聞にこう書いてあったとか、専門家がこう本に書いていたとかいうことを、すべてを鵜呑みにしないで、一から自分の頭で考え直すことこそが哲学的にものを考えることです。批判的な思考、批判的な見方ということです。

私たちは、生まれ育った中で身につけたものの見方や考え方を当たり前のものとして、ものを見たり考えたりしています。これを、著者三谷氏は「箱の中」の思考と呼んでいます。

私たちは、物心ついたときには、すでにこの「箱の中」に生きています。しかし、この「箱の中」の常識が本当に正しいか否かは、あらためてじっくりと吟味してみないと判断できないはずのものです。

たとえば、一般に伝統的なものは重みがあると受け取られます。長い歴史によって裏づけられているものは、先人の知恵によるそれなりの根拠があり、それは尊重されるべきだと考えられています。

しかし、伝統とされていることの中には、実はそれほど長い歴史のないものもあります。祖父の代や親の代から始まったことでも、それが伝承されると、伝統として扱われることがあります。このとき、子や孫は親や祖父以前から続けられてきたことと思い込んでも不思議ではありません。

前例を重んじることが多い職場では、たまたま1年前から始まったことでも、担当者が変わって新しい人が引き継ぐと、それはもう変えることのできないある種絶対的なものとして継続していきます。

ある業務上の作業について、なぜそれが必要となっているかが説明されることなく、今までしてきたことだからということで引き継がれる場合があります。そうすると、その意味が不明でも、まるで儀式のように作業だけが残ってしまいます。

たとえ、すでに環境の変化で必要性がなくなってしまっていても、今まで続けられてきたからという理由だけで、その作業は続けなければならないようになってしまいます。それは、外部から冷静に見ると、無駄な作業にしかすぎません。時間と労力と人件費の無駄です。しかし、だれもその無駄を指摘できません。これは昔からやっていることだから省いてはならないのだと、皆が思い込まされてしまうのです。

私は伝統の意義を否定するつもりはありません。特に良い伝統は残すべきだと思う人間です。しかし、「伝統」と言われただけで無条件に従うことでは、本当の「伝統」を守ることはできないと思っています。

ある「伝統」が疑わしいものである場合には、その歴史を調べることから始めるしかありません。過去の文献を調べることや、昔のことを知っている人に聞きとりを行うことが有効です。これは歴史学的なアプローチです。この歴史学的アプローチによって歴史を明らかにした上で、その「伝統」の意義について考えることが可能になります。哲学的に考えるというとき、それは専門分野としての哲学の枠だけにおさまりません。

宗教もイデオロギーも、また、法も、あるいは自然科学のような実証科学ですら、哲学的思考の前では、何の真理性も持たないかもしれないものとして一から吟味の対象となります。

「箱の外」の思考は哲学に限りません。たとえば、文学では現実の社会生活への違和感がテーマとなっている作品が多くあります。小説家や詩人はどれほどこのテーマでことばを刻んできたことでしょう。

あるいは、この「違和感」を主題としなくても、理想や、その正反対の汚い現実を描くことも「箱の外」からの視点に立っていることは同じです。文学者は哲学者とは異なった視点から、理屈で語れないような真実を物語や比喩で表現してきたという歴史があります。

科学と哲学

科学の研究も、哲学的なものの見方と結びついています。ノーベル医学・生理学賞の受賞が決定した本庶佑、京都大学特別教授はメディアのインタビューなどで、疑うことの大切さを再三説かれています。

「何か知りたい、不思議だなと思う心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持ち、自分の目で見て、納得するまで諦めない。そういう小中学生に研究の道を志してほしい」

クローズアップ科学】独創貫き「道なき道」を歩む ノーベル医学・生理学賞の本庶佑氏の研究哲学
(産経ニュース 2018.10.14 )https://www.sankei.com/premium/news/181014/prm1810140013-n1.html

「常に疑いを持ち、自分の目で見て、納得するまで諦めない。」ということは、哲学的にものを考えることに他なりません。本庶氏は、上記の引用部分では哲学ということばは使われていませんが、すべてを疑うところから出発したデカルトの精神と同じものと私には思われます。

現代における、専門分野としての哲学の研究と科学の研究では、研究方法が大きく違うものです。しかし、哲学的にものを見ることや考えることは、科学研究の精神にも通じています。

広く自然科学というとき、応用科学も基礎科学も含めた、理科系あるいは理数系分野全体を指すことが一般的だろうと思います。この自然科学は、自然界のさまざまな現象を研究対象としています。

そして、その成果は、近代以降に花開き、今の文明を築き上げました。産業革命の時代から現代に至るまで、石炭・石油・電気を使ったさまざまな機械が発明されました。石油から便利な物質も生み出されました。広義の自然科学の研究成果が、莫大な富を生み出すこともありました。実際、ノーベルもまた、ダイナマイトの発明によって莫大な富を築き、それをもとにしてあのノーベル賞が創設されたことは、周知のことです。

しかし、この科学研究も、昨今では大学の中でも即効性のある研究に予算が割かれ、海のものとも山のものともつかない基礎研究には、予算が得られにくいということが言われています。大学の研究室の研究費は削減され、先生方は自腹で研究室用のパソコンを購入したり、資金獲得のための文書作りに追われて研究以外の時間の消費を余儀なくされていることも伝えられます。

話がそれましたが、自然科学の研究、特に基礎研究においては、知りたいと思うことを自由に研究します。それが、何十年後に人類全体を救うような研究の土台となることもあります。

自分が知りたいために、それが利益を生むか否かを度外視して研究することの重要性は、ノーベル賞に限らず、大きな研究業績を残された学者が皆、言われることです。

哲学の場合は、基礎科学のような、何十年か先の応用に結びつくような研究はそうは生まれないかと思われます(ノーベル“哲学賞”もないですし)。しかし、哲学者が語る非常識なことが、数百年後には常識になることもあります。

イノベーションと哲学的思考

イノベーションは、技術や経済の文脈で使われることが多いことばですが、「箱の外」からの徹底的な思索によって、人間をめぐるあらゆることがらについて新しいものの見方を示して、変革することとも言えます。

この変革は一朝一夕に突然変異的に起こるわけではありません。特に、人間社会が絡むことがらについては、この突然変異はほとんど起こりません。あなたがどこかの組織の中で、一言、意見を表明したら明日からすべてが変わったという経験は、おそらくは今までもなかったと思います。

ものごとが変わるときは、一人の声がはじめにあったとしても、それがしだいに広がっていって、はじめて変わります。複数の賛同者を得てものごとは変わります。これは、科学的な研究でも似ていて、論文が多くの研究者に認められなければなりません。企業の新製品も、消費者の支持を得ないと、その新製品がエポックを画したとはなりません。もし、哲学がイノベーションを起こすとすれば、それは数十年から数百年の期間を経て起こるものでしょう。

しかし、私は、一人の天才的哲学者の研究が後世に大きな影響を与えることよりも、より重いものがあると考えています。それは、「箱の外」からの思考を実践するどこかの人の声に、他の人がしだいに賛同し始めて、それが人々の意識や社会を変えるまでに成長することです。

科学の研究と同様、哲学的にものを考えることも地味な作業です。退屈な作業と言ってもよいでしょう。しかし、それでも粘り強く考え続けることが、新しい視野を開くことになります。だれもがその革命的視野をことばとして表現する天才的哲学者になる必要はありません。

おそらくは、天才的哲学者は時代が自ずとどこかに生み出すように思われます。ある時代において、同じようなことを問題に感じて、その問題を解こうと悪戦苦闘している人がどこかにいるものです。その中の誰かが、たまたま天才にになるのかもしれません。

科学者の世界では、同じテーマを研究している人がたくさんいます。だれが一歩ぬきんでた新しい研究成果を達成できるかを競争しています。

哲学者の世界では、そのような競争は、仮にあるとしても専門的な研究のごく狭い範囲でしかあり得ません。目新しさを競いたい人はいるかもしれません。しかし、目新しさがあっても、数十年から数百年の期間で、それに賛同したい人が増えないなら、その研究はほぼ失敗だったといえることになるでしょう。場合によっては千年後の人々の心に響く可能性もありますが。

哲学の専門の研究領域はあります。それは、アカデミックな世界とその周辺部だけにしか通用しないものかもしれません。しかし、本来、哲学は専門家だけのものではありません。自然科学の成果が病気を治したりして万人の役に立つのと同様に、哲学は万人の役に立つと思われます。

哲学の役に立ち方

哲学は、哲学的にものを見て、そして考えるそのことによって万人の役に立つものです。哲学は古代ギリシアにおいて、自由な市民から生まれました。ソクラテスのように市民による裁判によって処刑された人もありましたが、ギリシアのポリスが崩壊して後、ヘレニズム時代においても、ローマ時代においても、ヨーロッパの中世においても、近世・近代においても生き延びてきました。それぞれの時代において、人はどのようにものを見て、考え、生きるべきかをそれぞれの時代の哲学者たちは示してきました。

これは今から見ると、学説の中身よりも、その思索の目的や過程に重要性があったからこそ生き延びてきたといえるでしょう。今でも、哲学を学ぶ一番の意義は、なぜ哲学者たちが自らある問題について考えようとし、それをどのように考えたかを知ることであるのは間違いありません。古い学説には欠点がいろいろとありますが、それ以上に、古い哲学者の思索の跡から学べることがあるからです。

哲学の役に立ち方は、特効薬のような効き目はありません。それは、疾病には特効薬があっても、人生には特効薬がないことに似ています。たとえば「恋の病」の特効薬はないのです。

哲学は、個々の人の人生抜きには成り立ちません。生きる中で、ものを考え、悩み、迷いながら、しかしそれでも生きようとする人には、自分で考えることにしか解決の道はありません。せいぜい、他者による助言程度です。

究極的には、人は、自ら自己の人生を引き受けて、自分ですべてを決めていくしかありません。他人に人生を委ねたところで、それは自分の人生を生きたことにはなりません。

そういうときに、役に立つのは哲学的にものを考えることです。人生には、自明のことだけではありませんし、確実なことだけでもありません。人生に敷かれたレールは、ありそうに見えますが実際はありません。それでも、その仮想のレールに乗って、奇跡的に仕合わせに生きる人もいるのかもしれません。それはたまたまそうなっただけであり、あらかじめ決まっていた必然性によるものではないと、私は思います。

もし、どうしようもない絶望的な状況に陥ったとしても、「それがどうした」と言えるだけの、ものごとを見る力・考える力は、自分が生きる力になります。

その力は「箱の外」に視点を置いて考えることから得られるでしょう。

「絶望的な状況」と言いましたが、これは広くとらえてください。この状況には、仕事に行き詰まったとき、上司や部下や同僚との関係に行き詰まったとき、研究に行き詰まったとき、家庭生活に行き詰まったとき、子どもの教育に行き詰まったとき、親の介護に行き詰まったときなど、人生の現実的な局面がすべて含まれます。

さらに、「哲学」ということばにこだわる必要もありません。自分を縛る枠として目に見えない形で存在していた「箱」から抜け出して、その外に出て、あらためて根底から考え直すことという程度に考えてもらってもけっこうです。

もし、「箱の外」から自己や他者、さらに社会のあり方を根本から考えることができるならば、目の前の絶望的状況すら、逆に希望とすら見えることもあるでしょう。

この「箱の外」に出ることついては、いろいろな表現ができます。白紙に戻す、すべてを捨てて自由になる、先入観を捨てる、高みに身を置いて俯瞰するなどです。これは、状況によって言い方は変わるでしょう。ただ、イメージはある程度をいだいていただけるのではないかと思います。

哲学は、医学的な研究のように疾病の特効薬は生み出せませんが、人生の万能薬にはなり得るかもしれません。たいして目に見える効き目はなくてじんわりと効いているような気がする程度の薬かもしれません。しかし、この薬はないのとあるのでは大違いです。

まあ、哲学はその程度かと思う方の方が多いかもしれません。そう思われる方々に対して、私はこれ以上何も言えないのだろうと思います。しかし、まだまだ、ことばが足りていない気はしています。

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