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「世の中には2種類の人間がいる、一つは賢者、もう一つは愚者」
かりに、こんなことを言われたら、どう思いますか?。
私の場合は、反発して、「ああそうですか、どうせ私はアホ(愚者)ですよ」と言い返してやりたくなります。
しかし、自分のことはおいておくとして、この違いは何なのかを考えてみるのは意味があるかもしれません。賢者の要件を満たしていない人が愚者ですから、賢者だけについてどういう人かを考えれば、違いは明らかになるでしょう。
賢者=賢い人=賢明な人とはどのような人なのか? 思いつくままに列挙してみましょう。
- 知識がある
- 特に数学がよくできる
- 論理的に考える力がある
- 頭の回転が速い
- 物覚えがよい
- 判断力がある
- ミスが少ない
- 偏差値が高いとされる学校を出ている
- 人望がある
- 人間・社会・自然についてよく理解している
- 恐怖に動じない
- 死を恐れない
- 勇敢であるが、決して蛮勇ではない
- 何ごとも、無知な人にもわかりやすく説明できる
- 自分に厳しく、他者には優しい
- 常に道徳的に行動できる
- 曲がったことが嫌いで、正義を重んじる
- 何があっても感情的にならない
- 節制と質素倹約に努める
- 友人や配偶者、家族を大切にする
- 近隣住民と良好な関係を保ち、求められる役割を果たす
- その時代の社会的弱者へ配慮する心を持ち、そういう人々を助けようとする
- 自己の信仰に熱心であり、他者の信仰にも寛容である
- 市民としての自覚をもち、納税などの義務を果たす
- 政治に関心を持ち、選挙の際には必ず投票する
- 自分と考え方の異なる人も尊重し、必要に応じて対話を重ねようとし、決して相手を否定しない
- 生活の能力をもち、経済的に裕福である
- 健康を維持する知識・知恵をもち、健康的な生活を送ることができる
- ものごとを客観的にとらえることができ、広い視野で何ごとも見ることができる
- 自己の限界を適切に理解し、自信過剰になることがない
- 他者の意見に耳を傾けることができる
- 自己を絶対視せず、自己の誤りは誤りとして受けいれ、反省することができる
- 常に向上心を持ち続け、前向きに努力することができる
このほかにもいろいろあるでしょうし、上に挙げたことについての異論もあるに違いありません。偏見だと批判されるようなものもあるでしょう。また、後半は道徳の徳目みたいだと思われる方もあるでしょうが、世間一般で賢明であるとされることについて、だいたいは挙げているのではないかともいます。
あくまでも、世間で思われそうなことを挙げています。私の個人的意見とは異なるものも含まれています。
これらを見てみると、いくつかに分類できそうな気がします。
1 知性に関すること
2 社会性に関すること
3 個人の実際の行動に関すること
4 個人の心の持ち方に関すること
上の1~4のなかで、複数にまたがることもありますが、私はだいたいこんな分け方が可能かなと思います。(3と4の境界は特に曖昧ですが、あまり問題にしないでください)
賢さとは、知性だけでなく、社会のなかでの実際の行動、それを支える内面の総合的な能力として認められるものではないでしょうか。
たとえば、「あの人は勉強がよくできて立派な大学を出たけれども、傲慢でいやな議員だ」と多くの人に言われる人と、「あの人は勉強はできなかったけれども、今では町の人々の為に一生懸命にがんばっている立派な議員だ」とみんなから言われる人がいた場合、どちらが賢明な人と判断すべきでしょうか。
これは、知性の面における、学校の成績や学歴と賢さはイコールではないという例であり、恣意的で極端な例に過ぎません。しかし、知性と社会的な能力は必ずしも一致するわけではないという例としてはありうる話だとは思います。もちろん、立派な学歴でなおかつ人間的にも立派な議員さんが多数いらっしゃることは言うまでもありません。
賢者というのはいろいろな角度から見て立派な人であるというべきであって、先の1~4のどれかが完全に欠けているような人は賢者とは言えないと、私は思うわけです。
逆に、愚者というのはわかりやすいですね。
上記の1~4のどれかが1つでも欠けている人です。しかし、そうなると大多数の人は愚者になるのではと思います。しかし、ここで話題にしているのは理想の話です。理想はしょせん理想なのですから、高く設定しても問題はないでしょう。
私も欠点だらけの愚者の一人です。哲学者ソクラテスの「無知の知」=「無知の自覚」というのをどこかで記憶されている方もいらっしゃるでしょうが、自分が愚か者であることの自覚は、それなりの意味を持つに違いありません。自分は愚者であることを自覚することは、自分を少しはましな人間にする第一歩であるように思います。
しかし、もし、役人に「おまえは愚者だ、矯正してやる」と言われ、家に土足で踏み込まれたら困りますね。
「ちょっと待ってください。その愚者の基準を示してくださいよ」と言いたくなるでしょう。
先に列挙した賢者の条件のすべてを満たせと言われたならば、私は「そいつは無理ですよ」と役人に食い下がるに違いありません。
完全無欠の賢者などというものは、理念としては存在できても、現実には、「ズバリ私です」とか、「それは、あの人です」とかは言えない存在だと言えると思います。
理想を考えてみることは有益だと思いますが、それは個人的な思考の世界のなかでしか意味を持たないのかもしれません。
しかし、私のような、すでに人生の4分の3以上生きてきた人間は、いかに死ぬかという問題が大きくなっています。残りの人生は死ぬまでの猶予期間で、それまでの間はちょっとずつだけでもましな人間になるように努力した方が、悔いの残らない死に方ができるだろうなとは思っています。