元気で勢いがあるときは、「だれもわかってくれない」という思いをいだくことはあまりないかもしれません。しかし、ちょっと心や体が弱っているときに何か問題を抱えたら、そんな孤独感や他人への不信感をいだくことがあるように思います。
私の場合は、生まれてこの方、弱りっぱなしといってもいい人間なので、そんな思いをしょっちゅういだいています。
たとえば、次のようなときは、だれもが身も心も弱ってしまいます。
- 仕事で何らかの失敗したとき
- 片思いの人に告白して、「ごめんなさい。あなたのことは好きになれません」といわれたとき
- つきあっている恋人に、ほかに好きな人ができたといわれたとき
- 大きな自然災害にあったとき
- 大病をしたとき
- 死にそうになったとき
- お金に困ったとき 等々、そのほか多数
だれかに助けてほしいという、わらをもすがる心境というのは、経験した人でないとわかりません。そんなとき、もし、救いの手をさしのべてくれる人がいたなら、どれだけ、ありがたいことでしょうか。
しかし、多くの人にとって、そのように助けてほしいと願っている他人の思いや経験は、他人事(ひとごと)にすぎません。
特に、今の社会では、「自己責任だ」という考え方が強くて、つらい思いをしているのも「自業自得」だとか、「運が悪くて可哀想」というほどの考え方の人の方が多いのではないでしょうか。
多くの人たちには、へたに不幸な人間に関わってしまうと、損をするのは自分だという考え方もあるでしょう。
たとえば、借金の形に高価な骨董品を預かって、実はそれが二束三文のものだったという話は、テレビ東京の「なんでも鑑定団」を見ていると、あまりにもよくある話です。
連帯保証人になってしまったがために、財産を失ってしまった人の話もよく聞きます。
はじめからだましてやろうというような輩(やから)がいることも現実です。自分の身を守るためには、人を助けてやろうという気持ちなどもたないのが安全策だというのはよくわかります。私も、連帯保証人になってくれといわれたら、相手によって悩むでしょうが、最終的にはノーと返答せざるをえないことがほとんどだと思います。
経済的な問題と心の問題はまた別だということは、確かにあります。「金の援助はできないが、心の相談ならのってやろう」、という人なら、まだまだいるのかもしれません。
しかし、心理カウンセラーというプロに相談に行くことができる今では、心の問題にしても「そんなことは、プロに相談したほうがいいよ」と、私でもいってしまうかもしれません。
実際、もし、精神疾患があるのなら、それはカウンセラーや精神科医にかかることこそがまず必要です。鬱病の患者さんであるのなら、命に関わる問題です。素人が安易に「がんばれよ」などと励ましてしまうと、取り返しのつかないことになってしまう可能性もありますから。
また、お金や心の問題よりも、労働力で助けられるなら、苦しんでいる人・困っている人を助けたいという人は多いと思います。
自然災害がどこかで起こると、その被災地には、多くのボランティアの方々が駆けつけています。マスコミの報道でそのような光景を拝見すると、見ず知らずの人のためであっても、自分にできることであれば何か手助けがしたいという方々の真心には心を打たれます。
労働力で解決できる問題ならば、ボランティアに助けを求めることも選択肢になります。
肉親や親友ならば、自分のことをわかろうとしてくれるかもしれません。しかし、いかに親しい人であっても、他者である以上は、完全に自分を理解してくれたり、ましてや自分になりかわってくれることもできません。
これは、個体として生きている個人個人の人間にとって、どうしようもない現実です。
困難や災厄、孤独感や絶望感におそわれたとき、私たちは自らそれを乗り越えるしかないのが、現実だとしかいえないのかもしれません。
生きることとは、自分で困難を引き受けつつ、それを乗り越えることとほぼ同義だと、自分に言い聞かせ、自分を励まして、私の場合は生きてきたように思います。
引き受けて乗り越えることで解決できれば、それが一番いいのかもしれません。
しかし、どうしても自力では解決できない問題もあります。
その場合は、公的な社会福祉や社会保障の制度に頼る方法が有効な手段であることも確かです。肉親や友人に頼れなくても、何らかの公的機関に頼ることもできます。たとえ絶望しても、まだ、そこに道は残されています。
人に見捨てられたときの絶望感は、耐え難いものがあります。他人が他人ことをわかるなんて、ほとんど不可能です。自分のことすらどれだけわかっているのかわからないのですから。
「どうせだれも分かってくれないんだ」と感じたとき、どうするべきでしょうか。
まず、そもそも他人は自分のことを分かることができないという現実を、自分に言い聞かせてみるのがよいのではないかと思います。
そして、その上で、肉親、友人、公的機関、ボランティアなど、「頼ってもいいよ」という姿勢で向き合ってくれる(であろう)人に、自分の思いや悩みや願いを伝えようとこころみることが、自分を救う道だと感じています。
もし、それでも裏切られたと感じたら、それでもまた、別の人や機関などあらゆるところに当たってみるべきです。
世間は、私たちが思っている以上に広い世界です。どこかに、自分のことをわかってくれる人が必ずいます。
絶望的な気持ちになっている人は、自分の思いを発信してください。幸い、今はインターネットもあります。人を助けたいという人は、私たちが思っている以上にたくさんいると思います。
私のようなおじさんでも、身近な人々に、少なくとも心の面では助けていただいています。
そのおかげで、何とか生きさせていただいているように感じています。