// // 諸行無常の世界でも、デジタルデータはイデアのように永遠かもしれません

諸行無常の世界でも、デジタルデータはイデアのように永遠かもしれません

この世は諸行無常、太陽すらいずれ消滅します。そのときは、すでに地球はなくなっているでしょう。

たとえ人類がすでに滅びていても、地球が残っていれば、文化遺産は形のある物として残っているかもしれません。ある映画のラストシーンに出てくる自由の女神のように。

地球がなくなってしまうと、それすらなくなってしまいます。文化遺産を残すなんて意味がないじゃないか、といいたくなります。

自然と文化のデジタルデータ

しかし、人類は、自分たちが滅びる前に、地球の自然や世界の文化遺産をすべてデジタル・データとして保存し、太陽系の外の遙か遠くの宇宙に送り出しているかもしれません。

あるいは、人類は滅びる前に、ノアの方舟のように、人類が知り得たすべての種類の生物の遺伝子と、先のデジタル・データをもって、宇宙に飛び出しているかもしれません。

美術作品や古文書や書籍は、世界の博物館や図書館によって、あるいはgoogleによって、どんどんデジタル化されています。このペースで行くと、人類が滅びるころには、あらゆる文化遺産がデジタル化されているかもしれません。

物は滅びてしまいますが、それをデジタル・データにして保存すれば、そのデータがなくならない限り、画像として画面上に映し出したり、3次元プリンターで、立体として再現することができます。

いずれは、単なる形だけでなく、分子構造ごと再現してくれるプリンターができるでしょう。

生物も、種は滅んでも、遺伝子さえ残っていれば、『ジュラシック・パーク』のように、生物を再現できるかもしれません。さらに、物質としての遺伝子が滅んでも、そのデータだけで、生物を再現できるようになるかもしれません。

デジタルデータとプラトンのイデア

そうなると、古代ギリシアの哲学者プラトンが「イデア」と呼んだような、あらゆるものの原型を表す永遠で不滅なものが、デジタルデータとして保存されることになるのかもしれません。

ただし、プラトンは、現実の世界とイデアの世界という2つの世界を区別しました。現実の世界はたえず変化する世界で、イデアの世界は永遠に不滅な真実の世界で、イデアの世界こそが本当の世界なんだという考えです。これは「イデア論」と呼ばれます。

デジタル・データがイデアのように別の世界にあるというのは考えにくいですね。

プラトンの弟子アリストテレスは、イデア論を批判して、イデアは別の世界にあるのではなく、現実の世界にあるそれぞれのものに含まれているという考えを示しました。ものはエイドス(形相 けいそう)とヒュレー(質料)から成り立つというのです。

たとえば、目の前に木の机があるとすると、これは材木という素材(質料)に、机が机として成り立つような形や機能などが考慮された設計図のようなエイドスが合わさってできあがっているということです。

デジタルデータであらゆる物が再現できることについては、プラトンのイデアよりもアリストテレスのエイドスの方が近いかもしれません。

ただ、ある何かのものがひとたびデジタルデータ化されれば、それはもうイデアのように諸行無常の世界から抜け出して、永遠不滅のものになります。これは、プラトンがイデアに求めた一部の趣旨は実現することになると思います。

宇宙船「ノアの方舟」号

人類は滅亡する前に宇宙船「ノアの方舟」号ともいうべきものを開発し、すでにデジタル化されたすべてのデータを分子構造ごと復元できる3Dプリンターとともに宇宙船に積み込むのではないかと私は想像しています。

いずれ地球がなくなっても、デジタルデータが無人の宇宙船「ノアの方舟」号に乗せられて宇宙をさまよい、「ノアの方舟」号に積まれた人工知能が発見した、地球に似た惑星に着陸するかもしれません。そこで宇宙船に装着された3Dプリンターが、次々に地球の自然と文化を復元していくような、まるで『旧約聖書』の「創世記」のようなことが、ちょっと内容が変わった形ではありますが、別の惑星で起こるのかもしれません。

古代人の思いは現代人にも無縁ではないように思います

絶えず変化するものと永遠に変わらない不変・不滅のものという、古代人の大きなテーマは現代人においては忘れられている問題かもしれません。

しかし、十数億年か数十億年後には地球はなくなってしまうということを考えたときに、「世界遺産に○○が登録されました」というニュースを見ても、私はそんなものはいずれなくなってしまうんだという思いを否定できません。

自分が生きている間と、子や孫、ひ孫の時代は大丈夫ということはいえるにせよ、それから長い長い時代を経て、いずれは地球の滅亡とともになくなってしまうんだと考えてしまいます。

私の場合、世界は絶えず変化し続けていくということは、確信になっています。

しかし、そういう確信があるからこそ、永遠にして不滅のものを求めたくなるのです。

テクノロジーの世界では、次々と新技術が現れます。スマホなどのハイテク製品は、どんどんと新製品が現れて、その都度買い換えるだけでもけっこうなお金がかかります。

働くものの立場からすると、たえず新しい商品・サービスの開発競争に追われて、心の安まる暇もないというような状況が生まれます。

進歩というのは良い変化のあり方ですが、進歩の裏では、古いものが滅びてしまうということも起こります。しかたのないことかもしれませんが、寂しい気持ちがあることは否定できません。

現代人は、このあたりの感情を割り切って生きているのかもしれません。

進歩 > 喪失

というような式が人々の間で共有されているのでしょう。

しかし、ごくたまには、いずれ自分も含めてすべてが消えてなくなることを想像することも必要かなとも思います。

そんな想像をしたときに、プラトンのような永遠なものを求めた人の心が、少しだけわかるような気がするのです。

スポンサーリンク