人文学がなくなった世の中はどうなるのでしょう【2】学校教育

Image by Gerd Altmann from Pixabay

先日、人文学が禁止されたらどうなるかということを考えてみたのですが、その後、いろいろなことが頭に浮かんできました。

もうちょっと、私には悪夢的に感じるこの状態について、記述してみたいと思います。

人文学は、役に立たない(お金にならない)代表格の、これぞ「虚学」、と言われたりもしています。

もし人文学が禁止されたら、高校や大学での教育はどんな具合になるのでしょうか。

個人的夢想による皮肉混じりの駄文なので、忙しい人は読まないで下さい。(時間の無駄になっては申し訳ありませんので。)

高校はどうなっているでしょう

この人文学禁止の社会では、学校の授業では、英語は実用英会話ですし、国語の内容もビジネスや法律関係の文章だけで、夏目漱石も中島敦も宮沢賢治も金子みすゞもありません。図書室には中央公論社の『世界の名著』も『世界の歴史』のシリーズもありません。

親の影響でも受けないかぎりは、人文学を学びたい高校生はいないでしょう。

高校では、ほとんどが数学と理科と情報処理の時間で占められています。理系コースに進む生徒が90%、文系コースは10%くらいでしょうか。

文系コースに進むのは、法学部志望の生徒だけです。経済学や心理学志望者は理系コースで学ぶように決められています。経済学や心理学には数学が必要だからです。

高校の普通科の教科は、今とは大幅に変わっており、国語科では、古文・漢文のような古典は廃止です。学習すべき漢字の数も大幅に減っています。漢字を覚えている暇があったら、英単語の一つでも覚えておけと、国語の怖い先生が授業中に言っていたりするかもしれません。

現代文には小説や詩はありません。論理的文章の読解や作成だけです。法律の条文と裁判所の判決文、判例の解説文、企業や役所での稟議書、プレゼン資料、取引先へのメール文などの実務的文章も教材とします。そうした教材を使って、ロジカル・シンキングが教えられます。

文学に接する機会はほぼ失われています。文学作品を通じて得られるさまざまなものの見方、感じ方、考え方を知る機会がないままに成人することになるでしょう。

論理的文章が教材になるといっても、哲学的な内容の文章が教えられることはありません。下手に哲学的な問題に関心を持つような生徒が出てきたら大問題です。哲学は禁止された学問ですから。

そもそも学校では、教師に哲学的問題を質問するような生徒は、その質問をした時点で、校則違反で停学処分になります。数回繰り返せば退学です。

日本史・世界史・地理の地歴科と、現代社会や政治・経済と倫理の公民科は、再編・統合されて社会科という名称が復活しています。

歴史を教えたりすると、禁学である歴史学を学びたいと思う生徒が出てきますので、日本史・世界史は廃止されています。しかし、地理は実務上有益なので、必修科目です。

また、法律や経済は必要ですので、政治・経済は必修科目となっています。しかし、社会問題などがでてくる現代社会は時間の無駄として廃止されています。倫理は禁学の哲学的問題が出てくるので、廃止です。人の生きる道については別に道徳という教科で学びます。

そこで、地理と政治・経済だけを合わせた教科が社会科です。

外国語科は英語科に限定されます。高校では英語しか教えません。(大学入試の共通テストでも英語のみです)。グローバル社会では、とりあえずは英語さえできればビジネスに支障がないと考えられます。それならば、他の外国語を教えたり、共通テストで他の外国語の問題作成のための予算は余分な費用だからです。

フランス語やドイツ語は、外交官や商社マンになる人にはそれなりの学ぶ意義があるとされています。しかし、フランスやドイツの文学や哲学などへの関心を持つような生徒や学生が出てくると困ります。

「すでに先進国の西欧諸国には日本は追いついた。もはや学ぶべきこともない。よって、学校ではフランス語やドイツ語は教える必要がない。」という答申が、有識者による審議会から出されています。そのためフランス語とドイツ語は学校教育から排除されました。(かつてフランス語やドイツ語を教えていた私立中高でも、文部科学省と教育委員会の厳しい指導が入って今は教えていません。)

英語は週に10時間ほどの時間数が必修となり、実践的な会話と実務文書の読み書き重視になります。英米文学は教えません。授業中にボブ・ディランやビートルズを聴くようなことも絶対に禁止です。

数学は、数学自体への関心を育てるよりも、数学を用いていかに実務に役立てるかを教えることを重視します。数学者は、天才的数学者以外は無駄飯食いとみなされていますので、数学者をめざすような生徒が育ってほしくないからです。

これは、理科についても同様です。純粋な物理学の研究をする物理学者は必要ありません。たとえば、電波望遠鏡や加速器などは費用がかかり、国家財政にとって負担となります。その費用以上の利益が得られるのかというと、ほぼ絶望的です。そんなわけで物理学者志望の生徒が増えては困ります。応用的な物理学を志望してもらうように、いかにして物理学の成果を商品化するか、それを商品化することはどれほどすばらしいことかを教えるという方向で、教育内容が改訂されています。これは、生物や地学も化学も同様です。

高校では、普通科でも、実務的な実学を重視するようになっており、理論や原理に関心を持つのではなく、実務的な実践や商品化への関心を高めるように工夫されるようになっています。

大学はどうなっているでしょう

大学はどうでしょう。

大学の学部の構成は、一般的には次のようになります。

医学部、薬学部、工学部、農学部が応用科学分野として、大学の中心の学部になります。予算配分でももっとも多い学部になります。

法学部や商学部や経営学部は、公務員、企業の管理部門への就職をめざす学生が集まります。各分野では実務経験豊富な教授陣が集まり、実践的なゼミで鍛えられることになります。企業や官庁のエリート養成のための学部です。

法曹志願者は、法科大学院と統合された6年制の司法学部という、超難関の学部で学ぶことになります。司法学部に合格すれば、ほぼ司法試験に受かったのと同様だとみなされるほどです。司法学部は、旧帝大および、それらの大学のある大都市の大規模私立大1校にのみ設置されます。毎年、在校生の9割が司法試験に合格しています。

外国語学部でも、実用的な語学力育成が重視されます。教員はすべて実務経験者で、元外交官、商社マンなどが後進育成のための教育に専心しています。外国文学研究者は、そもそも存在が否定されているので、教員に採用されることはありません。

基礎科学分野は、すべて理学部か総合科学部で細々と研究と教育が実施されます。経済学、心理学、社会学、人類学、地理学なども総合科学部に含まれます。もちろん文学部や人文学部は廃止されています。(一部では総合科学部という名称ではなく、社会学部や人間科学部やその類似名称の学部は存続しています)

基礎科学分野は、志望する学生も少なく、予算配分もそれに従って少なく配分されます。研究室の予算も少なく、教授陣は自分の給料やボーナスを出しあって、実験器具を買ったり、野外調査のための費用をまかなっています。学部生や院生も、実験や実習の時間以外は、できるだけアルバイトをして費用を捻出しています。

なお、言うまでもありませんが、教養課程とか一般教育としてかつて行われていたリベラル・アーツ分野のカリキュラムは廃止されています。そもそも、リベラル・アーツの多くは法律によって禁止されているからです。

このように、人文学が禁止された社会では、実学重視、理系重視、応用分野重視の教育が、徹底して行われています。

大学に進学するためには、高校時代から理系コースで学ぶ方が門戸は広くなっています。文系は大学全体の募集人員が少ないため、よほど成績がよくないかぎり文系コースは選ばれません。

社会から排除された人文学系分野の研究者たちは

すでに大学を追われた人文学の研究者や、市井の愛好家は、難民や亡命者として外国に多く移住しました。

国内に残った人は、蔵書は本棚の裏側や地下室に隠して密かに研究を続けています。

国内の人文系の学会は解散してしまいました。小規模な研究会が地下室や山奥でテントを張って行われているだけです。それは合法的な活動ではないので、あくまでも地下活動として行われています。

誰かが警察に密告するのではないかと、びくびくしながらの研究活動ですが、それでも研究をつづける人がまだいるようです。

結び

こんな具合に、人文学が排除されると学問や教育のあり方が大きく変わった状態となっているでしょう。

これが望ましい状態と考える人もおられるでしょう。

私には、つまらない状態です。部分的には、これもありかなと思えるところもありますが、全体的には望ましくない状態と思います。

また、あらためて人文学にかぎらず、実学ではない学問(虚学)とされる分野の存在意義について考えてみたいと思っています。

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