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常識について

Justus Sustermans [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons

常識としての科学的真理

「それでも地球は回っている」は有名なことばです。これをガリレオ・ガリレイが本当につぶやいたかは定かでありません。しかし、地動説を確信した人が、異端審問所審査で天動説を実質的に強制された直後に、心の中でつぶやいてもけっして不思議ではないと感じます。

現代では、地動説は大多数の人が真理であると確信しています。それは、子どものときから地動説が正しいと学校で教えられていることが大きいでしょう。自分で地動説の正しさを証明できなくても、だれもが地動説が正しいと思っています。私たちにとって、地動説は常識といえるものです。

しかし、この常識も絶対的なものではありません。

たとえば、キリスト教徒の中には、現代でも地動説も進化論も信じない人がいます。そのような人にとっては、天動説が常識であり、唯一神が万物を創造したとする創造論が常識です。

とはいえ、自然科学は、現代においてはたいへん説得力があります。科学的真理と矛盾することは、「それは迷信だ」と切って捨てることも、少なくとも日本に住む私たちには常識となっています。

フュシスとノモス

地動説のような自然科学にもとづく知識は、多くの人に認められやすいものですが、人間や社会をめぐる問題については、なかなかそうはいきません。

古代ギリシア人は、自然(必然的なもの)と人為的なものを、フュシス(自然)とノモス(法律や習俗など)として区別しました。このノモスに当たるものは、文化圏や国が異なればそれぞれに異なるのです。

たとえば、現代でも法律は国によって異なります。アメリカ合衆国ならば、州によっても違いがあります。また、宗教によって食べてよいもの・食べてはいけないものが異なります。ヒンドゥー教徒は牛肉を食べてはいけないし、イスラム教徒ならば豚肉を食べてはいけないなど、それぞれ違う禁止事項があります。

ノモスに当たるものはそれぞれの文化圏や国によって独自のものがあり、万国共通とはならないものが多々あると思われます。古代ギリシアのソフィストと呼ばれる人たちが考えたように、ノモスは相対的なものです。常識とされるものもノモスの一つといえそうです。

社会的常識と個人

また、ある社会で世間一般に常識とされていることは、個人個人によって差がある場合もあります。

「近頃の若者は常識をわきまえていない」と年長者が感じた場合、世代による常識の違いがある可能性があります。常識は明文化されているわけではありませんので、常識の内容は必ずしも同一ではありません。

『ブリタニカ国際大百科事典』では、「常識」を、次のように説明しています。

じょうしき
common sense

一般に学問的知識とは異なり,普通人が社会生活を営むためにもち,またもつべき意見,行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く,時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり,多分に相対的なものである。(後略)

『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2012』 ブリタニカ・ジャパン

常識は相対的なものといわれれば、確かにそうです。「Aさんにとっての常識は、Bさんにとっても常識であるとは限らない」ということはだれもが経験することですし。

しかし、人は自分が常識だと思っていることが万人に共通な、普遍的、絶対的なものであると思い込みやすいといえます。

認識の相違や価値観の相違を前提にしなければならないはずなのに、私たちは自分の常識と同じものを相手ももっていると誤解しやすいのです。

日本には、直接ことばに出さなくても、暗黙の了解で相手もわかってくれるだろうということを期待する考え方があるようによくいわれます。日本人に一般的なこの考え方が、「万人に共通の普遍的な常識が存在している」と私たちに信じさせている面もあるかと思います。

時代の変化と常識

しかし、私の個人的な感想に過ぎないのですが、”暗黙の了解”ならぬ”暗黙の常識”というようなものは、すでに失われているのではないかと思います。(あるいは、もともと幻想だった可能性もあります。)

少なくとも、社会全体の共通の常識を維持できるだけの社会の安定は、もはや期待できないように思います。もちろん、今までも社会は変化してきたのですが、変化のスピードがあまりにも早くなってしまいました。

技術の進歩が生活様式や人々のものの見方や考え方を変えることは、歴史が教えてくれるところです。たとえば、望遠鏡ができると、惑星はその外観でイメージされるようになりました。電灯がともるようになると、月光は夜の闇のなかの貴重な明かりとしての存在感は薄れてしまいました。

サイレント映画からトーキーの音声付きの映画に変わると、声がよくなかったり台詞の下手な俳優は銀幕から姿を消しました。ラジオの時代からテレビの時代へ変わると、映画の市場が縮小し、アナウンサーもルックスの良さが求められるように変化しました。

話が逸れますが、イギリスのロックバンド、バグルスのヒット曲「ラジオ・スターの悲劇」(Video Killed the Radio Star 1979年)は、時代の変化をユーモラスな音楽に乗せて歌いましたが、Youtube Killed the TV Star のようなパロディ版がいろいろ作られています。

新しい技術が新しいメディアを生み、古い文化が過去のものとなり淘汰されるサイクルが、どんどん短くなっているように思います。

この20年ほどを振り返ると、インターネットが急速に普及しました。パソコンの普及から、ガラケー、タブレット、スマホの普及が進みながら、ネットユーザーが大きく広がりました。インターネットをどう見ているかは、世代ごとの微妙な意識の違いが存在するかもしれません。

デジタルネイティブ世代とそれ以前の世代では、もしかすると違う価値観があるかもしれません。デジタルネイティブ世代でも、これからは5年ごとくらいに社会意識の違いが明確に区別されるようなことになるかもしれません。

社会の変化によって常識も変化していくのでしょう。そうだとすると、私たちが常識と信じていることは、実に危ういものに違いありません。

これが常識であると自分が思っていることは、他人にとっては非常識かもしれないということをたえず疑うべきでしょう。

ダイバーシティ経営

経済産業省は「ダイバーシティ経営」を推進しています。

「ダイバーシティ経営」とは
「多様な人材(注1)を活かし、その能力(注2)が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営(注3)」のことです。
これからの日本企業が競争力を高めていくために、必要かつ有効な戦略といえます。

(注1)「多様な人材」とは、性別、年齢、人種や国籍、障がいの有無、性的指向、宗教・信条、価値観などの多様性だけでなく、キャリアや経験、働き方などの多様性も含みます。

(注2)「能力」には、多様な人材それぞれの持つ潜在的な能力や特性なども含みます。

(注3)「イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」とは、組織内の個々の人材がその特性をいかし、いきいきと働くことの出来る環境を整えることによって、「自由な発想」が生まれ、生産性を向上し、自社の競争力強化につながる、といった一連の流れを生み出しうる経営のことです。

『平成28年度「新・ダイバーシティ経営企業100選」ベストプラクティス集』  経済産業省

経産省は、グローバル化や少子高齢化の時代に企業が適応するためには、多様な人材を有効に活用することがこれからの企業経営に求められていて、ダイバーシティ経営は避けて通れないということをいっています。

たとえば、「新卒採用で入社した」、「日本国籍の」、「男性の」、「正社員」にとってのみ有利な人事制度ができあがっているのが今までの日本企業ですが、それではもうやっていけませんよということもいいたいようです。

私には、この考え方が正しいのかどうかを語る資格はありません。しかし、経営環境においても今までの常識が通用しなくなったということは、大企業の経営陣も認識しているのでしょう。

組織内部の同質性を重視されてきたように見える日本企業が、そう簡単に多様性を尊重できるようになるかどうかは、疑わしいなと思います。また、それができたとしても、本当に企業の業績に役に立つのかどうかはわかりません。日本企業の強みといわれてきたことを180度転換する面があるからです。

個人的には、同調圧力で組織を固める伝統的なやり方では、これからは企業にとって有益な人材を失うことになるのではと思うということぐらいでしょうか。

ダイバーシティ経営が経産省によって推奨され、大企業もその方向で人事制度を見直していることは、少なくとも戦後社会が築き上げてきた常識を見直すときが来ていると、社会の上層部も認めているといえるように思います。

普遍的常識の可能性

極論すれば、常識であったはずのものがすぐに常識でなくなってしまうような、激しい変化の時代、不安定な時代が今であるといえるように思います。

常識などという概念など頭から捨ててしまうことで、今このときに適応すれば済む話なのかもしれません。

しかし、社会は人々が何らかの価値観なり考え方なりを共有していて成り立っている面も否定できません。法律に明文化されているとか、政府が政令や省令でいっているとかいうのとは違う、もっと漠然としているけれども、なおも共通した社会意識がないと社会は成立しないのではないかと思います。そういう意味では、人々に共有されている常識は必要なのではないでしょうか。

常識は曖昧で相対的な、頼りないものではありますが、それを磨く努力は、社会のメンバーが自覚的に積み重ねることがあってよいのではないかと思います。

「人を殺してはいけない」というのが、『旧約聖書』のモーセの十戒の一つにあります。これは、ユダヤ教の基本的な律法です。律法は宗教的戒律であると同時に、社会規範である法律でもあります。

この規範は、先のノモスに当たるものですが、ほぼ人類共通の規範といえるように思います。そもそも殺人を肯定してしまうと、下手をすると殺し合いの連鎖が起こり、共同体そのものが成り立たなくなりますから、当然のことでしょう。ノモスにも自然法則に近いような一般性をもったものが含まれている可能性は否定できないと思います。

かつて科学者が自然の認識についての常識を塗り替えたように、人間やその社会の常識を疑いながら、より多くの人が納得できるような新しい常識を作り上げることが、これからの私たちに求められている課題であるように私は思いますが、どう思われますか。

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