絶対に正しいものはあるのでしょうか

この世に絶対に正しいものあるのでしょうか。おそらくは、少なくとも生身の人間が、「これが絶対に正しいものです」と何かを指し示すことはできないだろうと思うのです。

絶対的なものを疑うことで、ものの見方や考え方に余裕ができるかもしれません。

現実の世界に、絶対に正しいものはあるのでしょうか

たとえば、ある政府のある政策が正しいか否かの判断は、人によって異なります。

経済政策のように、効果が数字で表現できるものでも、数字の読み取り方によって専門家の評価が異なります。政策が絶対に正しい政策であるかどうかは人には決定できないと思われます。

政策の評価には、それぞれの政治的な立場や考え方によっても影響されます。その時々の政権に対して、好意的か否かでも、政策の評価は変わります。

同時代に生きた人々からは良い評価をされなくても、100年後や200年後になって歴史家によって良い政策だったと評価されるようなもの、またその反対の場合もあるでしょう。

自然界の現象については、万人が認めるような真理がある、と考える人は多いでしょう。自然科学が見つけた法則は、それが事実であり、だれもが認める客観性という点で「絶対に正しいもの」に近いように思われます。

しかし、科学は進歩します。その進歩は、発見の積み重ねだけではなく、それまでの真理を塗り替えることもあります。ある時点で絶対的真理と思われたことも、時間が経てば、新しい発見があって、実は絶対的真理ではなかったとわかることもあります。

また、自然界も変化します。ある山の高さは正確な測量によって確定できますが、その高さは変化します。北極や南極の極点の位置も変化しています。自然界自体が変化する世界なので、そもそも絶対性はありえないと言うこともできます。

そういう意味から、科学的真理は客観性は高いものの「絶対に正しいもの」とは言い難いとも言えると思います。

ノーベル医学・生理学賞を受賞された本庶佑氏は、教科書も疑えとの趣旨のことを言われました。

教科書の内容が絶対的真理だと決まってしまえば、その先の研究はなくなってしまいます。科学的真理は、常に暫定的なもので、その先にも新しい真理があるから科学は進歩してきたとも言えるでしょう。

科学的真理とみなされることも、絶対に正しいものと言うことは難しいと思われます。

自然科学に対して、数学はどうでしょうか。数学は、実験や観察が必要ありません。自然のように研究対象が変化することもありません。純粋に理論的な学問です。

そうすると、三角形の内角の和が2直角であるという命題は、絶対的真理ではないでしょうか。これは、時代が変わろうとも、言語や文化が異なろうとも動かない不動の真理と言えるのではないでしょうか。

しかし、これもユークリッド幾何学という限定された範囲での真理です。非ユークリッド幾何学には当てはまりません。ユークリッド幾何学でのみ認められる真理である以上、「絶対的」真理とは言いにくいと思われます。

数学において、あらゆる問題がすべて完全に解決される日が来るのでしょうか。もし、その日が来たら、数学的真理は絶対的な真理だと言われるのかもしれません。しかし、まだまだ数学には難問がたくさん残っています。この先も、数学者は、新しい難問を提起し続けるのではないかと思われます。

「絶対」と「正しい」の意味

「絶対」の意味は、辞書的には次のように説明されます。

1 他との比較対立を越えていること。←→相対。
ア 制限されないこと。条件をつけられないこと。「これこそ―の名作である」「―不等式」
イ それ自体として他と関係なくても存在すること。相対的・比較的でないこと。「この場合には―度数より相対度数で見るべきだ」
ウ 完全なこと。「―の存在」
2 《副詞的に》決して。「―そうじゃない」「―に許すな」。断じて。「―行く」

『岩波国語辞典』第五版 岩波書店より抜粋

相対の対立概念。思考においても実在においても一切他者に依存せずそれ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものをいう。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2012

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「絶対」とは「相対」の反対語で、不動の、比較のできないことという意味になります。

ことばとして存在しているのだから、絶対的なものが存在しているのではないかと推測することはできます。

しかし、「絶対」は概念として理解できても、実際に具体的なものを指し示すことはできないとも思われます。

現実の世界に生きる私たち人間にとって、「絶対」は頭の中だけに存在するものでしょう。

もし、「絶対的なものはこれだ」とズバリ言われた場合、それを信じるか信じないかの次元でしか、私たちは評価できないように思われます。

それでは、「正しい」の意味は何でしょうか。

『新明解国語辞典』では、形容詞としての「正しい」の意味を次のように説明しています。

【正しい】(形)
1 道理・法に合っている様子だ。
「君の言うことは全く―」
2 真理・事実などに合っていて、偽りやまちがいが無い。
「―答え/―理解を妨げる」
3 規準に合っている様子だ。
「文法上は―」
4 形がゆがんだり 曲がったり しないで整っている様子だ。
「―〔=きちんとした〕姿勢」

『新明解国語辞典』三省堂

「正しい」の意味は一様ではありませんが、主として学問上の「真理」や法律や道徳的な「正義」を意味し、さらには芸術作品の「美」や工業製品の「完成度」を含んだ広い意味をもつ語と言えます。

「正しい」には、事実や法律やテストの正解と照らして「正しい」という比較的に明確なものや、工業製品が規格を満たしているという数値的に表示可能なものもあります。

ただ、事実は、それが実際に起こったか起こらなかったかは判定しやすいですが、その事実の内容がどういうものであったかは、解釈の余地が残ります。Aという事件が実際にあったことははっきりしていても、その真犯人が誰かはわからないことや、その事件がなぜ起こったかがわからないこともあります。

そもそも事実とは何かと考えると、せいぜいその静止画や動画や音声が事実だとしかいえないのかもしれません。しかし、その静止画や動画や音声すら意図的に一部のみが映し出されていたり、人によって演じられたものかもしれません。

「ある工業製品が正しい」とは変な日本語ですが、正しい工業製品であるはずなのに出荷前の検査データが、改変されたりねつ造されていたという事例も問題となりました。

「正しい」とされるものには、主観的なものが多く含まれているだけでなく、意図的な改変などが混じる可能性もあります。

そうすると、「正しいもの」が絶対性をもつことはきわめて困難と言えそうに思われます。

「正しいもの」とは、現実的には「相対的に正しいもの」と言い直したくなります。「絶対的に正しい」ということば自体が、矛盾を含んでいるとすら思われます。

自然界の現象と人間社会の問題とでは、正しさの意味が違うということはあるでしょう。同列に論じることはできないという見方もできるとは思います。

たとえば、物理的現象は、確かに一定の法則で起こっていて、人間の行動のように恣意的なものではありません。物理学の法則の正しさは、社会科学の法則の正しさとは、正しさの度合いが異なると見ることもできます。

とはいえ、自然界の現象から何らかの理論を見いだしたり、未知の原子や分子を発見するのも人間ですし、その正しさの認定も国際学会によります。

自然科学の研究成果の正しさというもの自体が、事実に照らしてされるものであるとはいえ、最終的には人間によって決められるということはあると思います。

自然現象の認識に関する「正しさ」も価値の一種で、人間が判定するものです。人間が判定するという点では、あらゆる「正しさ」は同じです。

数学上の新しい成果も、本当に理解できる人が世界に一人もいなかったりすれば、その時点では、まだ正しいとみなされません。

正しさの判定が人間によってなされる点から、正しさは、相対性から完全に逃れることは難しいように思います。

「私は絶対だ」と思いたくなるのも人間です

しかし、それでも私たちは、自分の考えが正しいと主張したくなることが多々あります。自分が「正しい」と考えるときは、それは「比較的に正しい」というよりも、「絶対的に正しい」と思いたいところがあるのではないでしょうか。

私たちは、絶対的なものを追い求めている面があります。たとえ、それを手につかむことができなくても、どこかにそれがあるはずだと信じたいのです。

しかし、それはだれにとっても同じではないため、それぞれが「私はこれが絶対的に正しいと思う」という信念の表明にとどまるように思います。

たとえば、人が信じることによって成り立っているものとして宗教があります。言うまでもなく、宗教には長い歴史があり、世界中にさまざまなものがあります。

宗教は、世界の始まりから、人生の生き方、死後のことまで、私たちが知りたいと思うことをほぼすべて教えてくれます。

時代と地域によって、それらの教えはそれぞれの特色を持っています。それぞれの宗教が、自分こそが真理だと主張しても、どれが本当なのかは判定できません。その教えを信じない人ににとっては、真理とみなされないからです。

宗教による対立は、歴史の中でも何度も繰り返されてきました。現代でもなお、これによって国際紛争や内戦、テロ事件が起こっています。

イデオロギーも似ています。たとえば、あるイデオロギーAによって政治が行われているA国もあれば、それに反対するBというイデオロギーによって政治が行われているB国も存在します。

A国とB国それぞれが、もし、自国が絶対に正しいので、相手の国は滅ぼすべきだと考えるようになってしまうと、最悪の事態である戦争にまで至ってしまいます。

私が絶対に正しい、私たちが絶対に正しいという考え方は、場合によっては、不毛な争いを生み出すことになってしまいます。

人は、自分の立場でものを感じ、ものを考えます。その立場が絶対だと考えたくなってしまいます。

しかし、そもそもこの世の中には、いろいろな人がいて、自分と同じ考え方の人がすべてではありません。そうである以上は、自分の考え方を絶対化することは、そもそも無理なことと悟るしかありません。

道徳的な観点から、他人に対して思いやりの心を持って配慮をすべきだと考える人も多いでしょう。しかし、これも身近な人間関係の範囲でしか実践できない傾向があります。

自分が属する集団以外の見知らぬ人々に対しては、無意識のうちに道徳的行為の対象外として扱っているようなこともあるかもしれません。

自分の属する集団や、地域や、国家を超えて、すべての人に対して思いやりをもって接するためには、相手の立場を想像して、自分が絶対だという考えを捨てる必要があるでしょう。

バック・パッカーとして世界のさまざまな文化を体験した人や、外国に留学した人、青年海外協力隊として働いた人、ビジネスマンとして外国の企業と取引をした人などであれば、この世界にはいろいろな人がいることを身をもって認識されたことでしょう。

しかし、現実にはそのような人は少数で、大多数の人は異文化との接触をもたないで、自国の社会とその文化だけになじんで生活しています。

ただ、自分の生活圏で培われた価値観や世界観を疑うことは、だれにでも可能です。自分の見方・考え方を疑いつつ、本を読んだり、映画を見るだけでも、自分が信じる絶対性の危うさを認識できるのではないかと思います。

自分が絶対に正しいという考えを保留すること

自分と異なる考えを持つ人々に対して、彼らは間違っていると心の中で思うことには、なんら制限はありません。

しかし、自分は絶対に正しく、彼らは絶対に間違っていると思うことは自由ではあるにせよ、危うさがあります。100%の自己肯定と100%の他者否定になるからです。

自分が絶対に正しいと考えることは自由ですが、それは信念にすぎません。もし、この世に絶対的なものが存在するとしても、それを万人が納得するものとして明確に指し示すことができないならば、その「絶対的なもの」は、普遍妥当性が保証されません。

そうすると、もし、自分の考えが絶対に正しいと考えたいとしても、他者が同じように考える保証はありません。

このことを受け入れることが、現実的な知恵だと思います。

ただ、そうだからといって、自分の考えをすべて否定したり、他者の考えをすべて肯定すべきだと言いたいわけではありません。

自分の考えと他者の考えを、お互いが語り合い、対話や議論を行うのがより良い選択だと思います。これができれば、私たちは他者に対してそれぞれの信念の違いを尊重して、他者と交わり合うこともできるはずです。

実際に、私たちは日常生活で、自分のことばかり主張するようなことはしていません。それぞれの性格や考え方を尊重して、人間関係を築いています。

結び

絶対的なものを求めることは、人間が生まれながらにもっている本性なのかもしれません。

たとえば、絶対的な理想を求めることが悪いことだと言えないし、絶対的なものは、人間がいだく幻想にすぎないとも言うこともできます。

これは、一つのパラドックスです。

しかし、こうしたパラドックスやアンチノミー(二律背反)の中で生きているのも人間です。

私たちは自分こそが絶対に正しいと思いがちなのですが、いったん自分の正しさを保留してみるのも意義のあることと思います。

他者こそが絶対に正しいと仮説を立ててみて、他者の側から自分の考えを吟味してみると、自分を相対化して見ることができるでしょう。

人間は、自分の主観的な見方についつい引きずられてしまい、冷静な見方ができなくなることがあります。自分が思う「絶対」を疑い、自分を「相対化」して、違う角度から考え直してみれば、心にも余裕が生まれるように思うのです。

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