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死ぬまで生きること

当たり前ですが、すべての生物は死ぬまで生きています。それは寿命といわれます。

だれもが天寿を全うできる状態にあることが、暮らしやすい世の中だといえると思います。しかし、戦争状態ではない平和な社会でも、事故や犯罪による死亡があります。また、外的要因ではなく、自ら死を選んでの死亡があります。ここでは、この自殺、自死について、考えてみたいと思います。

人間の特権?

寿命までに死を選んで自死するということは、人間だけのことなのかもしれません。人間は、いつでも、それだけの体力があれば、死のうと思えば死ぬことができます。寝たきりになると、それすらできなくなりますが、そうなる前に、自ら死を選ぶ人もいます。自死は、元気なうちにしかできないものです。私も、弱ってしまう前、元気なうちに死んだ方がいいのではと思うことが時々あります。

回復の見込みがないままに無理にでも生き延びさせるような延命治療を拒否することは、今では不可能ではない選択肢となってきています。尊厳死といわれるものです。意識のあるうちに、自分の意思(リビング・ウィル)を文書に記載しておくことで、医療機関にそれにしたがってもらおうというものです。尊厳死は安楽死と区別され、治癒の見込みがないのに延命だけが目的となっている治療をやめて、自然に死ぬことを自分の意思で選ぼうとするものです。これも、広い意味では自死に含まれるかもしれません。ただ、今の延命治療技術がない時代では自然死でしたので、厳密には尊厳死は自死と区別できそうです。

人間以外にも自死する動物がいるかどうかは、私にはよくわかりません。しかし、人間には複雑な精神があり、それがゆえにいろいろな悩みが生じて、自らの意思で死を選ぶことがあるとはいえると思います。

死の恐怖と誘惑

死の恐怖は、肉体的に苦しむことと、自分のすべてを失うこととにあるでしょう。病気になって苦しんで死ぬことへの恐怖、自分という自我が失われ、自分が積み重ねてきた人生すべてが失われることへの恐怖。主にこの二つが死の恐怖かと思います。

幼い子どもをもつお母さんやお父さんであれば、子どもたちにしてあげたいことができないままこの世から去るのは、心残りがあるでしょう。これは上の二つとは異なる苦しみかもしれません。これもまた死の苦しみの一つでしょう。

死は、この世を去る本人だけでなく、残された人にとっての苦しみでもあります。感情としては悲しみですが、それだけで済むものではありません。死者は、死後のことは自分が関知できませんので、残った親族は、さまざまな役所関係の手続きを終えなければなりませんし、葬儀もしなければなりません。葬儀の費用もそれなりにかかります。

私が若かった頃、「死にたい」と父親にいうと、放っておいても人間は死ぬから、別に急いで死ぬことはないといわれました。それから40年ほどが過ぎましたが、今もなお、私は生きています。父のことばによって生かされているのかもしれません。

人は、死への恐怖をいだくとともに、死への誘惑もあわせもっているようにも思います。特に、若い頃はこの二つがより強く心にあったように思います。年をとるとより死が身近なものになり、今の私は恐怖も誘惑も鈍くなってくるかもしれません。

若い人々の自死

10代の若い人が、たびたび自ら死を選んでいます。そういうニュースを見るたび、なんでそういうことになってしまったのかと、心が痛みます。

年齢階層別自殺者数の比較(累計)  「人口動態統計に基づく自殺者数(平成28年から)」より
「月別自殺者数の推移【平成28年12月分】」(平成29年6月 厚生労働省自殺対策推進室)http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12200000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu/h2812-01.pdf

上の図を見ていただくとわかりますが、厚生労働省の人口動態統計による自殺者数では、1年間に10代で500人前後の方々が自ら死を選んでいます。ゼロであってほしいのですが、これは多すぎる数字と思います。この人数は年代が上がるほどに増えますが、20代では10代の5倍以上に激増するのもたいへん胸の痛むところです。

近年、自殺者数は減少傾向にあることは評価できます。しかし、依然として、これから何十年も生きていくべき10代~20代の人が1年間に2500人以上の人が自ら死んでしまうとは、何とかしなくてはならない問題です。悩む人の相談しやすい場をもっと増やすことも必要でしょう。しかし、自殺は精神的な問題だけでなく、経済的な問題も要因になります。20代の人が働きがいをもてて、安定した収入ももてるよう、社会全体で改善すべきことがたくさんあります。この後者の問題については、できれば後日また考えてみたいと思います。

「教訓Ⅰ」命はひとつ人生は一回 だから命を捨てないようにね

シンガーソングライター、加川良氏(1947-2017)の歌「教訓Ⅰ」を思い出します。歌詞のごく一部を引用します。

命はひとつ人生は一回 だから命を捨てないようにネ

中略

死んで神様と言われるよりも

生きてバカだと言われましょうよネ

中略

青くなってしりごみなさい

逃げなさい隠れなさい

後略

この歌には、政治的なメッセージが含まれているでしょう。しかし、それ以前に、人が生きることはこういうことなんだということを、私たちに考えさせてくれる歌です。

たとえバカだといわれても、生きることが大事だということと、これはまずいなという状況になったら、そこから逃げてでも生き延びなさいというメッセージがこの歌にはあります。

この歌を聴くと、『硫黄島からの手紙』というクリント・イーストウッドが製作・監督を務めた映画を思い出します。二宮和也さんが演じた新婚の一等兵と、渡辺謙さんが演じた栗林中将(最終的には大将)の対照的な運命が印象的でした。栗林中将が実際に映画のような形で自決されたかどうかはわかりませんが、映画のシーンは心にしみるものでした。

この映画では、米兵に追い詰められた日本軍の兵士が、手榴弾で玉砕する衝撃的なシーンがあります。もし、自分が同じ状況に置かれたらどうするだろうかと、映画を見ながら考えました。若い頃の自分なら、自決していただろうと思いました。しかし、今の自分であれば何とか生き延びようとするのではないかと思いました。

ここで生き延びようとすることは、卑怯者といわれるかもしれません。武士道の精神からすると、否定されるべきことかもしれません。

あるいは、私は絶対に死を選ぶという人もいるでしょう。これを否定することはできません。

たとえ軍規に問題があったとしても、軍規である以上は従わなくてならないともいえます。「悪法も法なり」として毒杯をあおいだソクラテスの考え方からすると、法に従う、規則に従うのが正義です。

しかし、「教訓Ⅰ」は、このような社会的な制約や、あるいは死の美学をいったんは保留して、その上で、自分の命についてよく考えてくださいと呼びかけている歌だと思います。

一生物として自分がどうしたいかを考えてみること

人は生物の一つとして、生きようという本能をもっています。本能のおもむくままだけで行動することは社会的に許されませんが、社会よりも先だって自分がまずここにいることから出発して考えることも必要だと思います。社会的存在である人間も、まずは自然のなかの一生物です。社会の規則よりも前に自然の法則に従って生きなければなりません。

お腹が減っては力が入りませんし、何も食べなくては餓死します。暑さ寒さのために病気になり命を失うこともあります。生命を維持することがまず第一義です。その上で、社会的存在としての人間の活動が始まります。

自死・自殺をめぐって思うことは、死にたいと思う個人の意志の自由を完全に否定することはできないのだろうということです。しかし、生きることも死ぬことも、自分の本当の心の声を聞いて判断すべきことではないかと思います。人間の自由には限界があります。自由よりも制約の方が多いのでしょう。自然からの制約、社会からの制約には、私たちは逆らえません。

しかし、制約を受けている自分に気がつかないで、自分の自由意志と勘違いすることもあり得ます。世間の常識が自分の意志だと錯覚するような場合です。たとえば、男性らしく女性らしくあれという世間の常識があります。これは、自分の心の性と体の性との不一致を自覚する人にとっては、絶対的なものではないはずです。しかし、その不一致がない人にとっては深く考えてみることなく常識に従っています。自分は男(女)だから男(女)らしくしないとねと素朴に考えています。ジェンダー論に深入りすることは私にはできませんが、性差に限らず常識と自分の意志の問題はほかにもあると思います。

「自分は頭が悪い」とか、「自分は容姿が悪い」などと、劣等感を感じている人もあるでしょう。このような自己評価も、世間の常識による影響です。そもそも、自然界には学校の成績の高低も、美醜の区別もありません。これらは人間が勝手に作り出した価値の差です。

頭がいい悪いは、簡単に測れるものではありません。学校の成績や学歴だけで序列がつけられるわけでもありません。学校の成績が悪かった人でも、学問上の大きな業績を残した人もいます。実業界で成功した人もいます。政治家として活躍した人もいます。

容姿だって、時代によって美醜の評価は変わります。多数の人が認める美しい容姿でなくても、人それぞれに美しさがあります。

「自分は頭が悪いから、ここでは発言せずに黙っておこう」、「自分は容姿が悪いから、あの人に告白するのはやめよう」などと考えて、そのようにしたとしたら、自分の意志が世間の常識によってあやつられてしまったことになります。

まず、自分がどうしたいのかということから出発することは、生きる上でとても大切なことだと思います。

結論

自ら命を絶ちたいと思うようなことがあったとき、どうせいつかは死ぬんだからあわてる必要はないと思ってきました。また、自分は一生物として生きたいのだから、このことを尊重しようとも思ってきました。

また、ここにいたら自分はつぶれてしまうのではと感じたら、そこから逃げてきました。がんばりすぎて疲れたときも、しばらくおとなしく隠れて生きるようにもしてきました。

およそ、貴族的でない、非エリート的生き方です。だからといってエリートの方々からバカなヤツだといわれても全く恥ずかしいとも感じません。そもそも、私は貴族でもエリートでもないただの市井のオヤジに過ぎません。

おそらく世の中の90%以上の人が特別な人ではなく、普通の人です。そのような人は、必要以上に無理をする必要はありません。世間体だって気にする必要はありません。少なくとも、法に従い、まじめにこつこつ働いて、人に損害を与えないようにしていれば、身柄を拘束されたり、迫害されることもありません。幸いなことに、今の日本社会は今のところは、まだそういう生き方ができるのです。

若い人で、人生に絶望していたり、疲れきったりしている人には、先ほどの「逃げなさい、隠れなさい」という加川良氏の名曲「教訓Ⅰ」をぜひ聴いてほしいと思います。そして、自分の意思で、自然に死ぬまで生きてほしいと、心から願っています。

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