人間はアホですが、そこが人間らしさなのかもしれません

ニュースで流れてくるいろいろなできごとを見ていると、世の中が嫌になることがあります。これからの時代はいったいどうなるんだろうか?。そんなことも心配になります。しかし一方で、私たちは日々の生活に追われていて、本当は世の中のことを心配している暇もありません。

心配ごとが単なる杞憂であればよいのですが・・・。

おそらくは、昔から、世の中の変化に何らかの不安を感じながらも、人々は日々の生活に追われて生きていて、気がつくと世の中が困った方向に進んでいたということだったのかもしれません。

そんなことを考えながら、私は、この世の中について、あきらめざるを得ないことはあきらめようと自分に言い聞かせたりしています。

過去を振り返ると、そもそも理想的な世の中など実在しなかったでしょう。そして、おそらくは、これからも実現することはないのではと思います。

理想を思い描き、その実現のために努力することは、無意味なことではなく、すばらしいことと思います。しかし、世の中が理想的なものとして実現することは、ほぼ不可能なことではないかと思うのです。

人間は、やはりいくら賢い動物であるとはいえ、完璧ではありません。いろいろミスを犯します。よいことだと思って行動しても、それが結果として悪いことになってしまうこともあります。誤解されることもいろいろあります。

政治家でも、何らかの不祥事で大臣の職を辞したり解かれたりすることがよくあります。警察官や教師が懲戒処分を受けたというニュースも後を絶ちません。医師ですら、傷害事件を起こしています。

世の中で、職業に対する倫理意識や遵法意識が強く求められる人ですら、それを逸脱してしまうことが多々あります。このような現状を見るにつけ、人間は不完全であり、いろいろ失敗する動物だと思わずにおれません。

人の上に立つ人は、それなりの資質や行動が求められることは当然あるでしょう。しかし、こうしたできごとを見ていると、しょせん人間は、社会的地位に関係なく、そういう失敗をしてしまう動物でしかないと思わざるを得ません。

子どもたちから見ると、大人は偉そうに子どもに説教するのだから、それなりに立派でいてくれないと説教を聞く気もしなくなるということがあるでしょう。しかし、それは、ずっと昔からそうでした。

子どもに説教していた昔の大人たちも、本当に立派な人であったかというと、必ずしもそうでなかったといえると思います。もちろん、程度の問題もあります。子どもに説教するような資格がみじんもないような、本当にどうしようもない大人もいたに違いありません。


自分が子どもの頃、大人たちからあれこれ言われたことはよく覚えています。それを言った大人が、必ずしも立派な大人ではなかったこともよく覚えています。自分は、少なくとももう少しましな大人になろうと思ったこともありました。

しかし、時が過ぎて、自分が大人になってしまって思うことは、自分もたいしたことはない人間だったということでした。内心、不信感をいだいた大人たちと今の自分をくらべてみると、大差はないなというのが、偽らざる気持ちです。

そういうことを考えていると、人間は昔から、たいしたことのない大人が、子どもたちに善悪を説き、道を説き、処世術も説いてきた歴史があるのだろうと思いました。

ここで、問題にしたいのは、いつの時代でも大人たちは、自分自身のことはとりあえず保留しながら、子どもたちにかくあるべしと説いてきたということです。

大人たちは、自分のアホさ加減を自覚しながら、子どもたちには自分よりもましな人間になってほしいと深層で願いながら説教してきたのではないかと思うのです。

説教するという行為は、何らかの自覚的行為であったとは限らず、自ずとことばを発してしまったということだったのかもしれません。

このことが当たっているなら、人間は自らがアホだと自覚することが大人になることであり、そこから次世代を担う世代の人々に、自分のようなアホになってほしくないから、偉そうに説教してきたということだったのではないでしょうか。

そうすると、人間はアホであって、ある面、どうしようもなく愚かな生き物ですが、自分がアホだと認識できることが、人間らしさということなのかもしれません。

アホなことを繰り返していくのが人間の歴史なのでしょう。

しかし、人間は、歴史に学ぶことができるという点では、単なるアホではないはずだとは思います。

今、この世に生きている人々が、次世代のために、自分のアホさを自覚しつつも、言うべきことを言うことは、やはり必要ですね。自戒をこめて、こう思う次第です。

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