人間の自由について、ほんの少しですが考えてみました

地球上に住む私たちは、今のところ限られた空間の中で生きるしかありません。

いつか他の惑星に植民都市をつくるような時代になれば、その空間は広がるでしょう。それでも私たちは、生身の人間としては、物理的な空間の中でしか生活できません。

しかし、人間には精神があり、精神的な世界では、物理的な制約を受けずに無制限の空間に生きることができます。その意味で、人間の精神活動は自由です。

「人間が自由である」というとき、それはさまざまな意味で論じられます。肉体的に不当な拘束を受けない自由もあれば、表現の自由のような文化的・精神的な自由もあります。これらは、憲法などによって国家の法制度として、近代国家において保障されているような自由です。

しかし、人間の心の世界は、たとえ国家が存在しなくても、あるいは国家によって身柄が拘束されているような状態にあっても、いつでも自由です。

教会の異端審問を受けて地動説を放棄させられても、「それでも地球は回っている」と心の中で思うことは、誰にも妨げることはできません。「本音と建て前」の「本音」は、口に出さない限り、誰にもわかりません。

この精神的な自由は、古代でも、原始時代でも、それ以前でも、人間が意識を持ったときから存在していただろうと思います。この自由は、それがことばなどで表現されない限りは、どれほど強い権力があったとしても、それを制限することは不可能です。

このことから、人間は、たとえ身体を拘束されても、表現が制限されていても、その人の心の中は、だれもあやつることはできないということがいえます。

しかし、人は完全に孤独の中で生きることが難しい生き物でもあります。思ったことは口に出してだれかにいいたいし、それができなくとも、遠回しでも自分のいいたいことを、だれかにいいたいのです。また、才能のある人なら、たとえ検閲がある社会でも、それにできるだけ引かからない形でいいたいことを婉曲(えんきょく)的な表現方法や象徴的な仕方で表現しようとします。

心の中にしまっておくことよりも、それを外に出したいというのが、人間の本性なのかもしれません。「王様の耳はロバの耳」の話のように、口止めされると、余計に黙っていられないのかもしれません。

心の中の世界の自由は、物理的にも、政治的にも不可侵の世界なのですが、ひとたびそれを外に出してしまうと、物理的な証拠となり、政治的な弾圧の対象となってしまいます。

自由にいいたいことを発言できる社会というのは、自分の気にくわないことをいう人が必ずいるわけです。自分が一言いえば、批判されたり、反論されたり、下手をすると論駁(ろんばく)されたりということがいやでも起こります。

これをよしとするか、だめだというかは、それぞれの考え方しだいでしょう。

どちらを選択するかは、それぞれの自由意思に委ねられています。しかし、この自由がある今の時代に生きていることはありがたいことだと思います。

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