新型コロナ拡大で、死について考えさせられました

新型コロナウイルスの感染者数が全国的に増え、11都府県の緊急事態宣言が発出されました。

私もシニア世代に属する人間として、安全圏にいない人間と自覚せざるを得ません。感染すれば死んでも不思議ではありません。

第一波の頃ならば、まだまだ感染者数が少なかったので、感染しないで逃げ切れるかと思っていました。しかし、これだけ全国的に感染が広がってくると、自分が感染する可能性が、あの頃に比べてはるかに高くなってしまいました。

新型コロナがなかったとしても、年齢的にはいつ死んでもおかしくありません。それでも、死はもうちょっと先かなという風に考えるところがありました。しかし、このコロナのおかげで、今すぐ死ぬことや、明日死ぬことを現実的な問題として考えるようになりました。

それで、ハイデガーの『存在と時間』で取り上げられる、「先駆的決意性」を思い出しました。10代・20代の頃、病弱だった私は死についていつも考えていました。しかし、30代以降は、それなりに体も強くなり、日常の生活に忙殺されて、死について考える余裕もなく、自分が確実に死ぬことすら忘れていました。

しかし、ここに来て、近いうちに自分が新型コロナに感染するかもしれないことは、現実的な問題になりました。

感染して症状が出てきてからでは、すでにしんどくて何もする気になれないでしょう。それまでに、世間でいわれる「終活」をしておかなければならないと強く思うようになりました。

不要品を処分し、残された家族に、生命保険や銀行口座などの情報をわかりやすく残しておかなければなりません。パソコンの不要なデータも削除し、古いフロッピーディスクやCD-ROM、DVD-ROMなども、廃棄しなければなりません。

問題となるのが書物です。もし、あと数年以上生きられるのならば、すべてを処分してしまうと、調べ物をしたり、読むものがなくなり困ります。今までに集めてきた本や雑誌は、自分の体の一部のようでもあります。これなしには生きられません。

捨てるか残すかの判断は難しいですが、それでも、できるかぎり減らすように努力すべきとは思います。

デジタル画像化して、場所を取らないようにして残すという手がありますが、いわゆる「自炊」のために本を裁断するのには抵抗があります。本の一部をイメージスキャナーで読み取るという作業をしたことはありますが、もし、蔵書をすべて読み込むとしたら、かなりの手間と時間がかかってしまいます。これは現実的ではありません。

そこで、とりあえずは本棚や段ボール箱に本を整理しておいて、私の死後、古本屋さんに買い取りしてもらいやすいようにまとておこうと思います。

これは、レコードやCDやDVDなどのディスク類も同じです。CDはすべてパソコンに取り込んでおくことも可能です。しかし、アナログディスクをパソコンに取り込むのは、時間と手間がかかります。とりあえずは、明日死んでもよいように、本と同様にまとめておくのが今日明日にできることでしょう。

このような、身辺整理も大きな問題なのですが、それだけではなく、自分の人生が終わることにどう向き合うかです。そこで、先ほどのハイデガーの「先駆的決意性」が問題になります。

自分が死ぬことは、自然界の必然として受け入れるしかないことですが、私たちはただ生きて死ぬだけで満足できない面があります。

あなたは、自分が何のために生まれてきたのだろうか、という問いをいだいたことはないでしょうか。

その答えは各人それぞれの答えがあるだろうと思います。問題は、私たちはそのように生きることに意味を求めるということです。自分の人生が全く無意味であったと思うことはつらいことです。

それだからこそ、自分が必然的に死ぬことを意識して、自分がこのように生きたことに意味があったとある程度は自信をもって言えるような生き方をしておく方がよいだろうと思います。

偉そうにこんなことを言っても、私自身は自信をもって自分の生き方を誇れるようなものは何もありません。今日明日に死んでしまうと、それはもう「あまりにも無意味な人生だった」としか言えないまま死んでしまうことになります。

こんな事態を回避するために、何か「これだけはよくやった」と言えることを、今からでもできるようにがんばるしかないなと思う、緊急事態宣言下の日々です。

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