「政治は綺麗か汚いか?」と問われれば、「汚い」と答えるのが大方の人々の感じ方でしょう。
選挙戦を見ても、敵をさまざまな角度からののしり、自分を絶対的に正当化するような候補者や、政策を訴えるよりも有権者の感情に訴えるばかりの候補者がよくあります。あれを見て、仕方がないとは思いつつも、それでも、何でこんなに汚いことをやってるんだろうとか、これで本当にいいのかなと感じてしまうことがあります。
政治とは汚いものだと言うとき、私たちがイメージしているのは、たとえば国会で与党と野党が互いを批判しあっているとか、野党が反対のための反対をしているようにしか見えないことがあったりとか、議論よりもヤジのとばし合いをしている状態や、政治家が賄賂をもらったという罪で裁かれていることなどでしょう。こうした状態を見れば、職業的政治家なんて、世のため人のためと言うよりは、金や権力がほしい輩がやっているんだろうと感じている人が少なくないのではと思います。
政治家の理想のイメージとしては、おのれの個人的幸福を捨てて、自己犠牲のもと、ひたすら地域の人々や国家のために奮闘する人ということがあるでしょう。もちろん、政治家といえども、神でも仏でもなく一人の人間にすぎないので、常に自己犠牲のみを強いられる必要はありません。しかし、少なくとも、世のため人のために働くことを第一に考え行動している政治家は所属政党に関係なく私は尊敬します。
一口に政治と言っても、その形態は歴史上さまざまなものがありました。西洋の古代史でも、国王による統治(王制)、王を排除した貴族の合議による統治(貴族制あるいは共和制)、民会による直接民主制、独裁的な皇帝による帝制などが登場します。近代でも絶対王政に対する市民革命後の民主制などがありました。
歴史上、いろいろな統治形態が存在してきましたが、時代の変化によって、その時々の社会状況に対応できる形態が自ずとできあがったということは言えると思います。現代の私たちからすると、源氏の血を受け継ぐ将軍様が幕府を立ち上げて、その家臣の武士による支配を受けいれることは、ちょっと厳しいのではないでしょうか。政治のあり方は、それぞれの時代にふさわしいものが必要とされて、その必要に対応できる形態が実現されるのだと思います。
政治家に求められるのは、それぞれの政体において違いがあるでしょう。しかし、大きな視点で見れば、国を統治する人間に求められることは、よい政治、善政を行うことではないかと思われます。善政を行えば民衆に支持され、そうでなければ支持されないというのが、洋の東西を問わず古代以来変わらないことは、周知の事実かと思います。
民衆に支持される政治家は、国王であれ、皇帝であれ、封建制下の領主であれ、現代の大統領や首相であれ、あまり違いがないのではと思われます。(もちろん、善政とは何かという問題は、簡単には答えられない大きな問題ではありますが。)
善政を行ったとされる政治家は、古くから歴史家によって好意的に評価されてきました。そういう政治家は、完璧に綺麗(クリーン)とは言えなくても尊敬すべき人物として語られてきたと思います。
中国の伝説上の三皇五帝は理想的君主として尊敬されてきました。これは、あくまでも神話的領域なので、理想化された架空の人物といえるでしょう。しかし、漢の高祖、劉邦は実在した皇帝として好意的に評価されてきたと言えると思います。また、古代ギリシアのペリクレスもアテネの全盛期を作った政治家として、また、名演説家として、評価の高い人でしょう。
しかし、政策にはよい面と悪い面がどうしてもあります。ペリクレスはアテネの繁栄をもたらしましたが、アテネを盟主としていたデロス同盟の基金を流用し、同盟に加わっていた諸ポリスから反感を買いました。それが、アテネのデロス同盟とスパルタのペロポネソス同盟との戦争(ペロポネソス戦争)につながっていきました。
また、古代から、政治には権力争いがありました。武力闘争や策謀で勝ち抜いたものが権力を握ることができました。今でも、クーデターで政権を掌握したり、内戦で勝った勢力が国を治めるということが起こっています。今の日本ではそのようなことはないですが、有史以来、どれだけの戦いがあり、策謀があったことでしょう。
政治なんてなくなればいいのに、と思うこともしばしばあります。しかし、政治がこの世から消えてなくなることはありません。中央政府にしろ地方政府(地方自治体)にしろ、これがなくなれば困ります。ゴミの収集はどうなるの、上下水道はどうなるの、健康保険や年金はどうなるの、警察や消防はどうなるの、安全保障はどうなるの・・・等々、数え上げればきりがないほどです。
人間の生活にはゴミ捨て場もトイレも必要なのと同じくらいに、政治も人間の生活には不可欠なものです。政治は、専門の政治家に任せておけばよい、と考える人は多いと思います。それは、汚いものにはあまり触れたくないという心理がかなり含まれているような気がします。
できることならないことにしたい政治ですが、ないことにできないものである点では、ゴミや屎尿と同じです。
ゴミ捨て場もトイレも掃除をしなくては、悪臭を放ちます。掃除は必要です。今では、共同のゴミ捨て場の掃除も、家のトイレの掃除も、お金を出せば自分でやらなくても誰かがやってくれるかもしれません。誰かがやってくれるからといっても、お金を払っている人が監督しないと、しっかりと掃除してもらえるかはわかりません。政治についてもこれと似たところがあります。
政治は、きれいごとではすまないものです。いわば、それは悪であり不純なものです。政治家は、そのような人が手を染めたくない仕事をやってくれている人でもあります。しかし、誰かに任せておけばよいと、放っておくと、見た目のきれいな便器でも、排水パイプは劣化していて、汚水が便器からあふれ出してしまうかもしれません。家庭ゴミが目の前からはなくなっているかもしれませんが、家の裏山にゴミが山積みされて、雨水と一緒に家に流れ込むようになるかもしれません。
政治については、いろいろと考えるべきことがあります。きれい・きたない、好き・嫌いという視点以外からも考えないといけないですね。また、考えてみることにします。