学ぶ姿勢から見た実学と虚学 保阪正康著『実学と虚学』から学びました

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実学・虚学は、生活に役に立つか否かの基準で語られることがほとんどです。

たとえば、私は以前に次のような記事を書きました。

学校教育法という法律では、幼稚園から小学校、中学校、高校、高等専門学校、特別支援学校、専修学校、大学・大学院までの学校について規定しています。私たちは、制度として作られたいろいろな学校のなかで、少なくとも義務教育は受けるわけです。

若い時代にだれもがこれらのうちのどれかの学校に通いながら、どれだけの人がワクワクしながら授業を受けているでしょうか。心から本当に学びたいと思って学んでいる人がどれだけいるでしょうか。

ここでは、学ぼうとする意欲や志のあり方など、学ぶ姿勢の視点から、実学・虚学について考えてみます。

学ばされる場としての学校

小学校から高校まで、学校が好きだった人もそうでなかった人もいるでしょう。中には学校が大好きで、学校の教科すべてが大好きだったという人もいるでしょう。そのような人はどちらかといえば少数の秀才型の人だったでしょう。

学校があるからこそ、幅広く必要なことを系統的に学ぶことができるという、たいへんよい面があることは否定できません。たとえば、6歳の子どもに好きではないことを学びなさいといって放っておいても、進んで学ぶ子はほとんどいないと思われます。そう考えると、学校が強制的に学ばせることは、子どもの教育には意義のあることです。

しかし、学ばされる側の子どもからすると、あまり楽しくないことは確かです。それでも、多くの子どもが勉強するのは、親や教師にほめられることに喜びを感じたり、よい成績で評価されることで自信を深め、やる気が出てくるということがあるでしょう。また、勉強して「良い学校」に進学しないと、将来「良い仕事」につけなくなるという恐れによって、がんばらざるをえないからかもしれません。

がんばって勉強して成果を出せれば将来は約束される、あるいは、それができなければみじめな人生しか送られなくなる、という動機づけによって子どもたちは学んでいる面は否定できないと思われます。

このような学ぶ動機は、心の内側からわき上がってきたというよりも、外部から与えられたものといえます。

しかし、だれにでも好奇心があり、知りたいと思うことがたくさんあります。学びへの欲求は100%外部からのものというのは言い過ぎでしょう。

知りたい心と知る喜び

幼児は素朴な疑問のかたまりです。

「あれなあに?」とか、「なぜ?」「どうして?」という問いを発し続けます。

ものの名を知り覚えることは、幼児にとって自分の知っている世界を広げることになります。

そして、ものの名を知ることだけでなく、ものについてそれがどういうものかをさらに知りたいと子どもは思います。

リンゴの絵をみて、「リンゴ」とことばでいえるだけでは、リンゴを知ったことにはなりません。実際に食べてみて、それが食べ物であり、どんな味がするものかということを知って、リンゴを知ったといえるでしょう。さらには、それが、果物であり、果物とは植物であり、木になる実であり、木とは何であり、それが草とはどう違うか、木の花や実とは何であるか等々を知って、より深くリンゴを知ったことになります。

このようなことを、子どもは知りたいと感じます。それだから、大人に質問します。そして、大人が答えてくれたら、それをどんどん吸収していきます。

幼児にとって、見るもの聞くものすべてが新鮮で、自分の身近にあるものごとをどんどんと知っていこうとします。これは、他の動物と同じように、自分の周りの環境に適応しないと生きていけないから、生きるための本能として具わっていることなのかもしれません。

哲学者アリストテレスは、『形而上学』の最初に「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」と言いました。私たちは、本性的にものごとを知ろうとします。知ることに喜びを感じるのは、そのことによるのだろうと思います。

私たちは本来、知りたい、学びたいと欲しているのだと思います。ただ、興味・関心があることだけでなく、それ以外のこともたくさん学ばなくてはならないため、消化不良になってしまうのかもしれません。

学校が、それぞれの児童・生徒にとって、自ら欲して学ぶことができる場になればよいのですが。

学ぶことと生きること

生命維持のための学び

学ぶことは、生きるために必要なことです。狩猟・採集の時代は、それができる知識と技術を身につけなければ生きていけませんでしたので、それを学ぶことは必須のことでした。

文明社会になってからは、その文明での言語や文字を身につけ、通貨や重量や体積の計算方法や農耕の技術を身につけることが生きるために必要になりました。今はさらに多くのことを身につけなくてはならなくなっています。

今の時代を生きる私たちは、就職し、職場で一人前の仕事ができるようになって、生活費を稼げるようになることや、炊事・洗濯・掃除などの生活に必要な家事ができるようになることが必要です。これらの奥は深いものです。少しずつ実地に学んでいくしかありません。

このように、生きるための必須の学びは、世間で「実学」といわれているものです。

しかし、人間は生命維持のために必要なことだけを知りたい・学びたいと感じるだけではありません。

人として生きるための学び

人間は、何のために自分は生きているのかという問いを無視して生きることが難しいと思われます。

アメリカの心理学者マズロー(1908年~1970年)の欲求段階説は有名です。

(1) 生命維持の欲求 (生理的欲求)

(2) 安定と安全の欲求

(3) 社会的欲求 (集団的欲求,所属欲求,親和欲求)

(4) 自我の欲求 (人格的欲求,自主性の欲求,尊敬の欲求)

(5) 自己実現の欲求

ブリタニカ国際大百科事典小項目版を参照(一部改変)

人の欲求は、まずは自分が生きるための生理的欲求、安全の欲求を満たしたいと思います。

それが満たされれば、人間は孤独で孤立した状態ではなく、家族や集団の一員として愛されていることを求めます。

次に、人は集団の中で尊重され尊敬されたいと思います。

さらに、この社会で人は自分が本当にこうなりたいと思う人間になりたいと思います。

独断的ですが、個人的には次のようなことをイメージしています。

  • 衣食住が満たされ、とりあえず身の安全があってもそれだけでは物足りない。…(1)と(2)
  • やはり、友達もほしいし、結婚して家族もほしい、就職して集団の一員として認められたい。…(3)
  • 就職したら昇進もしたいし、職場や社会で尊敬されるようにもなりたい。…(4)
  • しかし、それだけではまだ足りない。本当になりたい自分になりたい。…(5)

マズローの欲求段階説には批判もあります。また、「自己実現」をどういうことと捉えるかも難しいところです。しかし、人間のとらえ方として、参考になる見方ではないかと思っています。

人間は社会的動物といわれますが、社会の中で地位と名誉さらに財産を得ればそれですべてよしというのではなく、自分の本来のあり方がどこかにあって、それを実現すべきではないかと考えるように思います。

そもそも自分は何ものなのかと自分に問いかけて、その答えを見いだしたい。その上で、自分は社会の中でどのような人間になりたいかと考え、その自分になるように希求する。そのような面が人間にはあるのではないかということです。

そうすると、人生の歩みの中で最終的には自己実現のための学びがあると考えられます。本来の自分のあるべき姿を実現するために、心から学びたいと思うような学びです。いわば、人としてあるいは「私として」生きるための学びといえるような学びがあるのではないかと思います。

保阪正康 著『実学と虚学―《学び》は人をどう変えるか』から学べること

第一部 「学ぶ心」と「学ぶ姿勢」をこの人に学ぶ

自分自身を見つめ、自分が心から欲するような学びを求める人もあります。

保阪正康氏の『実学と虚学 ――《学び》は人をどう変えるか』(プレジデント社,2001年)という本があります。(今では絶版になっていて残念です。)

私は、この本を数年前に古本で入手しました。一気に読んでしまいましたが、いろいろと考えさせられました。実学についてあれこれ考えるようになったきっかけは、この本を読んだことが大きかったといえます。

この本から私自身が学んだことを書いておこうと思います。

この本は、まず、

第一部「学ぶ心」と「学ぶ姿勢」をこの人に学ぶ

として、京都の佛教大学通信教育部で学んだ4人の方々に取材し、それぞれの方が、どういう動機で学びはじめ、それをどのように生かしているかということが書かれています。

たとえば、宝石店を経営するツルカメ・コーポレーション(現As-meエステール)の創業者小島康誉氏が、いかにして仏教を学ぼうと思うようになったか、そして僧侶になるに至った経緯が、本人への取材をもとに書かれています。

他に、死に行く患者に医師としてどう向き合うかを真剣に考えて仏教学を学ぶ人、余命宣告を受けるほどの病気から生還し、企業戦士から社会福祉士の道へ進んだ人、看護師を経て僧侶である夫とともに社会福祉活動を続けてきたが、あらためて仏教福祉を学んでいる女性。それぞれ、学ぶこととはどういうことなのかを反省せずにはいられないような話が出てきます。

それぞれの方々は、心から学びたいという気持ちになり、生きることと学ぶことが深く結びついた学びを実践された方々です。学ぶとはこういうことではないかと、著者は示そうとしています。

また、保阪氏は、通信教育部での授業(スクーリング)の場を実際に見て、その受講生の真剣な取り組み方についても書いています。

通信教育は、レポートと試験の合格で単位を取るのが中心ですが、スクーリング出席が必須の科目もあります。仕事をしながら学ぶ人や、大学から離れた場所に住む人にとっては、旅費や貴重な時間を使っての出席です。教師も真剣に教えないと、受講生が納得してくれません。学問の場は本来はこうあってほしい思いがします。

第二部 人なぜ「学ぶ」のか

この本の後半は、

第二部 人なぜ「学ぶ」のか

と題され、「学び」について、著者の見解が書かれています。そして、実学と虚学の違いについても考察されています。

 実学とは、もともとは明治初期に福澤諭吉が用いて広まったと言われているが、(中略) 『学問のすゝめ』で喝破したように、字を知り、書に目を通し、あたかも難しい理論を身につけることだけを学問と考えるのは、単に「文字の問屋」にすぎないというのである。

福澤の考えを突きつめていけば、江戸期に「学問」と称して、国学や漢学の枠内にその意味を押しとどめていたのはまさに錯覚そのものである、ということになる。それは虚飾的学問、つまりは虚学であるにすぎない。

福澤は、漢学や国学が新し時代に対応できずにいることを憂い、学問とはまさに社会的に実用されてこそ深い意味を持つ、とその著で力説したのである。

保阪正康 『実学と虚学―《学び》は人をどう変えるか』プレジデント社 p.179

黄色マーカーは引用者による(以下同様)

保阪氏は、福澤諭吉の見解から、江戸期の学問の虚学的なありかたと、それに対する実学のありかたを対比しています。

そして、近代~現代での虚学は、大学のブランドと学歴によって温存されてきたのではないかと指摘します。

 虚学が重視され、虚学をもって学問とし、なにがしかの難解な論を口にすることをもって、学びと決めつける傾向がある。そして、この学ぶという姿を社会的に認知させるために――学んだ知識や理論が生活上なんら役に立たないという事実を隠すためにも――「学歴」という肩書きが欲せられたのではないか。

同書 p.179-180

厳しい批判です。しかし、保阪氏のいう実学と虚学は、特定の学問分野や研究対象を指しているわけではなりません。

同じ分野や研究対象であっても、実学にも虚学にもなりうるということです。学びへの向かい方、研究への向かい方を、保阪氏は問題にします。

そして、実学と虚学について、次のようにまとめます。

――実学とは、自分が人間的に生きる姿、人生の価値を高からしめる姿、それを求める心に忠実に従って教えを求めること。

――虚学とは、自分が社会的に生きる姿、社会での自分の価値を表面上高からしめる姿、その利害の求める心に従って教えを求めること。

同書 p.185

保阪氏は、「学ぶ心に火がついている」ような学びこそが実学であり、「イミテーションとしての学び」という、自分を飾るための肩書きや経歴のために大学や大学院で学ぶことは、どの分野を学ぼうと虚学であると言っています。

マズローの説でいえば、「自己実現の欲求」による学びこそが、保阪氏の考える実学ということになるかもしれません。(保阪氏はマズローの説を出したりはされていないので、これは私の勝手な解釈です。)

実学が、保阪氏の言うように、心から学びたいと欲することを真剣に学ぶことであれば、何々大学の何々学部の何々学科に在籍すること自体は、手段であっても目的にはなりません。そこに在籍して、自分は何を学び取りたいか、それによって自分自身や社会のために何をしたいかということが目的になるということです。

保阪氏の実学・虚学の見解から思うこと

生きるために必要な知識を身につけるという次元の実学と、より高度な深い知識を身につける次元の実学は異なるということはいえると思います。

その意味では、保阪氏の実学論は、後者の次元の実学を語っているものといえるでしょう。

実際、保阪氏は長年の著述活動を経て、カルチャーセンターや大学の客員教授を務められ、その経験から、この著書を書かれていた当時は、特に大学のあり方に視点が向いていることがあったと思います。

また、第一部での4人の方々は、中年以降にあらためて大学で学び直す道を歩んだ方々です。若い世代にとっては、身近な話とは感じにくいかもしれません。

出版されて17年経っている本でもあり、この時代と今では、また、違う問題も起こってきているということもあるかもしれません。

しかし、この本からは、何のために学ぶのかという問いかけの重要性を学ぶことができると思います。

大学全入時代といわれるようになって久しくなりました。昔と違って、学びたい人には門戸は開かれているというよい時代です。しかし、授業料は安いとはいえず、奨学金の返済に苦しむ人も多いという問題も起こっています。

また、一方では偏差値による大学の序列化もあいかわらずあります。偏差値の高い有名大学の方が就職に有利であるということも、まだまだ現実のようです。

社会的背景によって、私たちの学びはいろいろと影響されてしまいます。このことは、社会の中で生活していかなくてはならない私たちにとっては、避けられないことではあります。

ただそれでも、人は本当に学びたいことしか本当に学べないし、イミテーションとしての学びだけでは本当に満足できないということは否定しにくいと思います。また、本当に学びたいことを学び、それを人々のために生かすことから得られる喜びは、たいへん大きいとも思います。さらに、学びを続けながら、年齢に関係なく自分自身がより一歩前進し、成長していくことの喜びもまた大きいものだと思います。

人生のいろいろな時期の中で、学ぶべきことや学びたいことは変わっていきます。それぞれの時期でベストの選択をして、保阪氏の言われる実学を学び続けることができればと、私も思います。

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 結び

実学という語には、いろいろな意味がこめられてきました。かつて、江戸時代では漢学(儒学)の中でも、それぞれの学派が自分たちこそ実学であると主張されてきた経緯があります。

近代では、そのような「実学」を覆すような、新しい福澤諭吉の実学の考え方がでてきました。この実学観は現代に生きる実学観であると言えるだろうと思います。ただし、福澤の主張する実学は、現実には、明治政府の教育政策として100%採用されていったわけではありませんでした。

また、思想史的に見れば、江戸時代の実学観を経て、福澤諭吉の近代的な実学観がでてきたと言うこともできます。江戸時代までの学問は実学ではなかったと、安易に言うことはできません。

学問の研究と教育のあり方は、社会のあり方に影響され、時代によって変遷してきました。しかし、何のための学びや研究かということは、それぞれの時代でたえず問い返されてきました。そして、それぞれの信念に基づいて、学ばれ研究されてきたということも言えます。

単純に言うと、悪しき虚学や偽学は淘汰され、より普遍性をもった学問が受け継がれてきました。古代から現代に至るまで、学問が維持・継続され、現代の科学技術に至るまでスピードの差はあれ、たえず進歩してきました。これは、長い時代にわたって、人類が先人の学問を受け継ぎ、それを進歩させてきたからこそできたことだと思います。

保阪氏の実学論は、理系分野の学問への視点が欠落しているという批判も成り立つかもしれません。しかし、学びの根本的な心のあり方を考えると、理系も文系もかわりはありません。「学ぶ心に火がついている」学問への姿勢は、何を学ぶにせよ同じはずです。

「学ぶ心に火がついている」ということばは、この本を読んだ数年前から、私自身、何度も反芻してきました。だんだんとそのような心が自分から失われてきていると感じていたからです。この本を読んでからは、いくつになっても学んでやるんだと自分を奮い立たせるようにしています。

学ぶ心に火がついていた状態は、思えば、だれでも幼児期のころに体験していたはずです。また、いくつになっても、人は関心のあることを知りたいと思っています。

何かを調べるときは、まずはネットで検索するのが当たり前になりましたが、多くの検索が、世界中で、日々、星の数ほど行われていることを考えると、人は常に何かを知ろうとしているのだということがよくわかります。

人はだれでも、いつでも「学ぶ心に火がつく」準備ができているものと思わざるをえません。そうすると、保阪氏の言われる、イミテーションではない本当の実学を、私たちはいつでも学び始めることができると言えそうです。

私も、この拙文を書きながら、あらためて自分自身に向き合い、自分を見つめ直し、死ぬまで学びを続けていきたいと思いました。

なお、この記事で取り上げた本は絶版で新本は入手できません。しかし、古本でよければ安価で入手できそうです。なお、私が引用したのはプレジデント社発行の単行本ですが、PHP文庫版も出ていました。(PHP文庫も絶版です)

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