運命はあるのかもしれませんが、それに負けない生き方もあると思います

自分の努力を超えた運命があるのかもしれません。しかし、自分の運命を恐れない生き方もあるのではないかと思います。そんなことについて、考えてみました。

「運命」なんてない、努力すれば何とかなるくらいに考えていました

10代の頃、死が怖くて仕方がありませんでした。それでも、20代のころは、死よりも、生きることの方に関心が移りました。運命は自分で切りひらくもんだと思いました。20代の頃は、とにかく前向きだったということでしょうか。

病気にかかったり事故に遭う可能性はだれにでもあることくらいはわかっていました。しかし、自分には関係ないと思えるくらいの心の勢いがあったかもしれません。

しかし、たいした年月を経ないうちに、私は考えが変わりました。努力した結果も含めて、自力ではどうしようもできないことがあると認めるようになりました。うまくいかないなという体験が増えたことがその原因なのでしょう。

努力は大切ですが、運・不運は否定できません

成功した人が自身の人生を振り返り、自分は運がよかったと述懐されているのをよく見かけます。成功するためには血のにじむような努力を重ねられたに違いありません。しかし、努力だけで必ず成功できたわけではないことを、消えていったライバルを見て、身をもって感じられたのだろうと思います。

成功者は努力したうえで幸運をつかんだ人でしょうから、よほどの「棚からぼた餅」式で幸運をつかんだ人(たとえば、思わぬ遺産相続で大金が手に入ったとか)は別として、幸運は努力によって勝ち取られたものと言えます。

しかし、努力したから成功するわけではありません。努力のしかたによっては、失敗します。

受験勉強でも、ただ勉強に時間をかけただけでは合格できないことは、よくいわれることです。試験の日は決まっているわけですから、それまでの限られた時間内にどれだけ試験に出る内容への対策を立てておくかが重要です。やみくもに教科書や辞書を丸暗記するよりも、試験に出題されることを重点的に身につけておくことや、問題を解くための訓練を積んでおくことが大切です。

努力には、適切なやり方があることは、当たり前すぎることでしょう。

そうは言っても、大学の入学試験や資格試験のような、出題範囲が決まっている試験を突破することと、人生の何らかの目標を達成することとは必ずしも同列に論じることができません。

起業する人は、それぞれ成功への道筋をよく考えて努力しているはずですが、100%成功するわけではありません。むしろ失敗の方が多いといわれます。結果論としては、目標なり計画なり、成功への道筋が誤っていたということになります。

しかし、全く新しい事業を興すことは、そもそも正解がないような未知の世界に船を漕ぎ出すようなものです。予測できないいろいろなことが起こりえます。

事業を興してはじめはうまくいっていたが、たまたま世界同時不況が起こってしまって、急に営業成績が落ちてしまった・・・というようなことも起こります。

これは、努力を超えた「運」と言わざるをえないことだと思います。

そもそも、新卒者の就職は、たまたま就職活動する時期の景気で、売り手市場となるか買い手市場となるか、大きく景色が変わります。先輩は私と同じ努力をして採用されたのに、今年は採用数が減って希望の企業に私は採用してもらえなかったということもあり得ます。これは、本人の責任を超えたことです。

あるいは、30年間一生懸命会社のために働いてきたのに、会社が倒産してしまった。50代の身で再就職を余儀なくされたが、なかなか、望むような再就職先が見つからない。それもまた本人の努力を超えたことです。

努力だけでは回避できない不運という運命に、私たちはどう立ち向かえばいいのでしょうか。

「運命愛」をもてますか

哲学者ニーチェは、「運命愛」を説きました。どれほど過酷な運命であったとしても、それを喜んで受けいれることです。

フリードリッヒ・ニーチェ

フリードリッヒ・ニーチェ  作者 Gustav-Adolf chultze (d. 1897) [Public domain]

私は、以前、ニーチェの「運命愛」は自分にはできそうにない旨を書きました。

江戸時代の武士が、まったく理不尽な理由で、主君から切腹を命じられたときを想像してみてください。それが自分であったならどうするでしょうか。

現代でも、無実の罪で有罪の判決を受ける人もいます。もし、自分がえん罪で死刑判決が確定し、再審請求をしても却下されつづけ、とうとう拘置所でいよいよ刑の執行のために呼び出されたときはどうしますか。

逃げることができる場合は、選択の自由が残されています。しかし、とらわれの身で、もはや逃げることができない選択の自由のない状況なら、理不尽な死を受けいれるしかありません。

このような運命を愛することができるかといわれれば、やはり厳しいなと思います。しかし、自分に選択の自由がないとき、自分はその状況を受けいれるしかないのも現実です。

ソクラテスのように、「悪法も法なり」といって、また、死によって魂が自由になれると、前向きに刑を受けいれるような道しかないのかもしれません。

また、死については、事故にあうこと、犯罪の犠牲になることによって突然訪れることもあります。このとき、通常、私たちは納得のしようがありません。

それでも、過酷な運命を受けいれざるをえないときに、ニーチェのいうような運命愛をもつことができる超人の強い心をもつしかないのかもしれません。

また、ニーチェならば否定するかもしれませんが、ブッダのような悟りによって、あらゆる苦しみを乗り越える心を得るという道も考えられます。

 運命があるとしても、私たちにはわかりません

運命があるとしても、今を生きている人間には、自分の運命なんかわかるはずもありません。そうであるならば、自分の運命がどうなるかを心配する意味は全くないはずです。

自分の運命がどうなるかがわからないのですから、運命について考えるよりも、今のこのときをベストを尽くして生きるしかありません。

このベストを尽くすとはどういうことでしょうか。

その時々において、

1 最善の選択をする

2 精一杯の努力する

この二つしかないのではないでしょうか。

たとえば、山道で迷ってしまい、さまよっているときに、二つの分かれ道に遭遇したときどうしますか。二つの道がどちらも地図には載っていなかったしたら、自分で選ぶしかありません。

そのとき、「どれにしようかな、神様の言うとおり・・・」といって選ぶか、あるいは、片方は尾根に向かう上り坂、片方は谷に向かう下り坂ということを見極めた上で道を選ぶかでは、「運命」は変わります。

上にのぼることは、帰り道を見つけやすくなります。また、たとえ下山予定日に帰れず遭難扱いされて捜索されることになったとしても、谷ではなく尾根にいればヘリコプターなどから発見されやすくなります。

そして、そう判断できれば、できるだけ見晴らしのいいところへ行くため精一杯頑張ります。すでに体は疲れていて、脚の筋肉痛もあるかもしれませんが、それでも生きるために、力を振り絞って、可能な限り登っていきます。

適切な選択と最大の努力により、山で死んでしまうか生きて下界に降りることができるかが分かれます。

これは、登山する人には常識の話でしょう。はじめから運を天に任せるのではなく、理にかなったよりよい選択をすることで、生死が分かれるかもしれないというたとえとしてみて下さい。

運命も、個人の行動によってどうにでもなり得るということも、否定できません。

結論 ベストを尽くせば運命なんて怖くないはずです

運命は、それを運命と呼べば、どうすることもできないもの思えてしまうかもしれません。しかし、まずは、すべては因果応報、自業自得だと考えて、最大の努力をする以外に私たちにできることはありません。

そもそも、先を読むことは完璧には不可能です。しかし、たとえば、将棋の世界では何手(何十手)も先を読まないと、勝つことはできません。負けたとしても、多くの棋士は自分の読みが甘かったとして反省し、次に生かすでしょう。

常に自分の最大の能力を発揮していれば、たとえ勝負に負けても悔いは残らないはずです。最大の努力をすれば、運命なんか怖くなくなります。

努力は大切。しかし、努力を超えた運命がある。それでも努力するしかないのが人間だ。

このことを念頭に置いてベストを尽くすことで、精一杯自分は頑張ったという満足感といいますか、自己肯定感は得られるはずです。

これでダメならどうしようもない限界点まで頑張れば、もう、その結果がどうなっても、何の恐れもないのではないでしょうか。

本当に極限まで努力した人にとって、運命がどのようなものとなったとしても、もはやそれはそれでよいと思えるはずだと思います。

ニーチェは、何事も運命だとあきらめてしまう生き方ではなく、極限まで努力して、運命なんかどうでもよいと思えるくらいの生き方をしなさいといいたかったのかもしれません。

だれでも死は必ず迎えなければなりません。その人生の最期の時に、自分の人生はすばらしいものだったと思えるような生き方ができていたのであれば、どのような死の迎え方をしても、悔いはないのだろうと思います。

これは、たとえどのような運命をたどって生きてきて、死に至ったかということであっても、自分にとっては心から満足できるものであったということであるように思います。

最大の努力をして生きたことは、運命の恐怖も死の恐怖も乗り越える力を得ることになるのではないかと、私には思えます。

たとえ運命があったとしても、また、たとえそれがどのような運命であったとしても、それが自分の精一杯の生き方の結果であったとしたら、何の悔いも恐怖もないのではないかと思えます。

これが私なりのここでの結論です。

あなたはどう思われますか。

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