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哲学的問いについて

哲学は、世間一般のイメージからすると、もっとも実学的でない学問ということになるでしょう。

同じ人文系の分野で見てみると、歴史学なら文献に基づいて過去に起こった事実について明らかにする学問ですし、文学も生身の人間から生まれた文学作品を通じて、古今東西の人間や社会について明らかにする学問です。(これらがすべてではありませんが、大ざっぱにいうとこんな感じだろうということです)

これらも実学ではないという人は多いでしょうが、哲学と比べるとまだ少しましと見る人もいるかもしれません。

哲学にも、いろいろな哲学があって一概に言えないかもしれません。哲学は、大ざっぱに言えば、現実から完全に遊離しているような、およそ浮世離れした研究が、学問として存立します。

たとえば、人間の認識について、認識とは何かというような原理的な思考は認識論として哲学の一分野になります。認識についての反省的・原理的な思考は、認識のあり方についてのメタ理論として、哲学的研究として成り立つわけです。

たとえば西洋近世哲学では、正しい認識は理性によって得られるのか、あるいは五感に基づいた経験によって得られるのかが問題にされました。

現代人にしてみれば、「理性も経験もどっちも必要だろ」と突っ込みたくなるかもしれません。

自然科学は、実験・観察という経験による研究と、惑星の動き方や物体の運動を数式で表すような、理性による研究によって発達してきました。現実の自然科学は、理性と経験の両方を有効に活用して発達してきました。

認識についてあれこれ理屈を並べている暇があったら、何か現実的なことがらについて認識してみろ、と言われても文句を言えないのが哲学です。

しかし、そうした「非実学」的だ、「虚学」だと言われる哲学が、研究するに値しない学問かというと、そうではないと私は思っています。

たとえば、もし、哲学がなければ、「私たち人間がものごとを認識するとはどういうことか」と問い、考えることがなくなってしまうわけです。

認識についてだけではありません。およそ人間ならば、人生のどこかの時点で一度でも問うてみるような原理的な問題が多々存在します。

しかし、もし、哲学がなければすべて無意味な問いとして不問にふせられてしまいます。

たとえば、次のような問いです。

どうして、私は私であってあなたではないのか。

どうして私が見ているこの青色は、あなたにとっても青色なのか。もしかすると、私にとっての青色はあなたにとっての赤色である可能性もあるのではないのか。

どうして、私は今ここに存在しているのか。どうして私ではないあなたも存在しているのか。そもそも存在とは何なのか。等々

実証的な学問だけが学問であるなら、実証的に答えることができない問いは、そもそも問うことのできない擬似的な問いでしかないはずです。

しかしながら、人はそんな問いを問うてしまうのです。

そのように考えてみると、実証的に答えを出す学問分野の問いだけが問いになると考えることには無理があります。実証的な答え方しかできない問い以外の問いも、たとえ決定的な答えが出なかったとしても、人間がそれを問うかぎりは問いとして成り立つはずです。

哲学的問いというのは、その大部分が実証的に答えられないものです。しかし、その問いは問うことすら意味のない問いとして片づけてしまうことができない問いが含まれています。

おそらく、人間は哲学的問いを全く無意味な問いとして退けることができません。それは、哲学的問いを、人生のどこかの時点で問うたことがあるからです。

「それは何」、「それはなぜ」という幼児の問いは、大人になったからといって、すべてが解決されるわけではありません。依然として残り続ける問いが存在します。

人間の知的な営みの根源的なあり方は、素朴な問いを立てて、それを自分の頭で考えて、また、他の人の見解も聞きながら、さらに練り上げていくことにあります。

すべての知がそこから始まるとすれば、素朴な問いと、それに答えを出そうとする思索には、目先の役に立つとか立たないとかということを超えた大きな意味があると、私は思っています。

実学と言われる学問を学んでいる方も、それを研究している方も、自分の研究対象や研究方法について、あらためて哲学的に問うてみることで、研究に資することが多々あるのではないかと思っています。

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